東郡(中世)

室町期~戦国期に見える郡名相模国のうち戦国期,相模国は主に東・中・西および三浦の4郡に分けて称されており(役帳),東郡は,中世の鎌倉・高座【たかくら】両郡および津久井郡の一部(城山町と津久井町の一部)・愛甲【あいこう】郡の一部(愛川町の一部)を含み,現在の相模原市・座間市・大和【やまと】市・綾瀬市・海老名【えびな】市・寒川町・茅ケ崎市・藤沢市・鎌倉市・横浜市戸塚区・同市瀬谷区・城山町および津久井町・愛川町の各一部にわたる地域にあたる郡名は室町期から見え,嘉吉元年12月29日の管領細川持之下知状に「相模国東郡河入郷」とあるが初見(上杉文書/県史資3下‐6030)ただしこの河入郷は中世の愛甲郡(現厚木市)にあたっており,郡域は確定していなかったものと思われる明応4年小田原城を攻略した北条早雲は,永正9年8月岡崎城を攻略し,三浦郡を除いた相模国はその勢力下におかれることになった同年10月に北条早雲は玉縄城を築くが,当郡はこの玉縄城の支配下におかれている(県史通1)天文18年11月7日,玉縄城主北条綱成が同城普請のための人足を鎌倉中の家別に賦課し(鶴岡八幡宮文書/県史資3下‐6882),同19年4月朔日に北条氏康が「東郡磯部郷」「東郡田名之郷」に対して玉縄城米銭の納入を命じている(相文・陶山静彦氏所蔵文書/同前6887・6888)また永禄6年6月10日および同8年8月12日には北条氏政が「東郡・三浦郡・久良岐郡」の郷村に対し,玉縄城の塀の修築を5年に一度ずつ命じている(陶山静彦氏所蔵文書/同前7331・7462)下って,天正8年8月に城主北条氏舜が当郡中の殺生禁断を命じ(相文/同前8604),同14年2月29日にも城主北条氏勝が鈴木又右衛門尉に「東郡・久良岐郡」における借米の催促を認めている(栗原済一氏所蔵文書/同前9160)なお小田原北条氏支配下で見える当郡内の郷名には,河入郷・座間之郷・磯部郷・田名之郷・用田郷などがある(県史資3下‐6030・6783・6887・6888・7401)

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7304791 |