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平塚宿(近世)


 江戸期の宿名。大住【おおすみ】郡のうち。東海道の宿駅の1つ。寛永10年・元禄10年ともに幕府領,幕末は小田原藩領。ほかに春日社領・浄土宗阿弥陀寺領・日蓮宗要法寺領。このうち阿弥陀寺領については,天正19年徳川家康寄進状写に「中郡平塚郷之内拾石之事」と見える(記略)。春日社領6石・要法寺領8石の朱印は慶安2年に拝領(新編相模)。「旧高旧領」では古義真言宗薬師院領3石余も見えるが,東海道宿村大概帳などでは除地とある。村高は,寛文年間の三郡高帳(県史資6)によれば先高440石余・今高643石余ほかに船役4貫800文・よしめん500文,「元禄郷帳」では平塚村とあり678石余,「天保郷帳」でも平塚宿とあり720石余,「旧高旧領」では平塚村とあり753石余。宿の成立当初については不明な点が多いが,慶長6年東海道に伝馬制度が置かれて以来の宿駅の1つで,他の東海道各宿と同様に寛永年間には100人・100疋と伝馬役負担が定められ,代わりに1万坪の地子を免除されたが,その後従来の宿だけでは増加する伝馬継立てに対応できず,慶安4年隣村の八幡新宿(平塚新宿)を加宿し,同宿も伝馬役を負担することとなったが(平塚市史2),元禄年間までは平塚村の呼称が一般的であった。東海道が宿内を東西に走り,家並みは街道沿いに形成された。宿内は東から十八軒町・西中町・二十四軒町・柳町・東中町と小名が並ぶ。このうち二十四軒町は平塚新宿から24軒が移転して成立したという。これに伴い,移転地の平塚宿18軒は逆に新宿寄りに移ったという。「新編相模」によれば,平塚新宿を加えた宿の東西19町5間余・南北24町余,いわゆる本宿の家並みの長さは9町5間,その家数289軒,本陣・脇本陣,旅籠屋48軒うち中15・小33,鶴岡八幡宮祭礼の際に社役を勤める神事舞太夫2,鎮守は春日社,別当は広蔵寺,寺院は浄土宗阿弥陀寺,天台宗宝積院,古義真言宗薬師院・宝善院,日蓮宗要法寺・妙安寺,時宗教善寺など。なお同書は,街道を離れた西方に小名上平塚町があると記す。同町は元禄改定図には平塚宿の内上平塚と見えるという。東海道宿村大概帳では,平塚新宿を加えた数値を記すが,天保14年改の人別2,140・家数443軒,家数のうち本陣1・脇本陣1・旅籠屋54(大2・中29・小23),本陣は建坪凡163坪で東中町に,脇本陣は建坪凡75坪で二十四軒町に,人馬継問屋場は,平塚新宿が経営の東組問屋が二十四軒町に,本宿が経営の西組問屋が西中町に,宿高札場は二十四軒町にあった。農村としての平塚宿について,文政8年の地誌取調書上帳によれば,反別116町5反余,田方3割・畑方7割で,田の反別14町2反余・高144石余,畑の反別102町2反余・高496石余,土性は砂地,用水はなく天水を利用,検地は寛文5年,延宝2年・延享元年に新田検地,南西に3町許かかって海へ注ぐ花水川の河岸から大磯宿へかけて反別11町ほどの秣場があり秣永を上納,農間余業は男が往来雇歩行と地引網漁(地引網船4),女が木綿業(平塚郷土文庫/平塚市史2)。延宝2年に打ち出された新田の所在等については不明な所が多い。文久3年の新田浪除堤築立願書によれば,延享元年に打ち出された新田4町2反余は,宿の西方,大磯宿地続きにある秣場の窪地を享保年中から追々切り開いた場所で,のち2町1反余は永荒となり捨地となり,以前の秣場同然と化してしまったため,文久3年に波除堤を築き立て,総費用永103貫619文ほどで田畑2町余の再開発を小田原藩へ願い出た(同前)。漁業に関係して当宿と大磯宿の間で浦境争論が発生したが,元禄5年幕府は当宿の言い分を認め,花水川の海への落口から見通しの線を浦境とするなどの裁許が下っている(同前)。また宿の東・北・南には慶長6年から植付けが行われた幕府御林が広がっていた。天保10年の万手控覚帳によれば,御林がかかる当宿などは落葉や下草をとりうる代わりに松苗植付けを義務づけられていたが,元文5年から落葉永を上納することに定められ,当宿の落葉永は東分・西分に二分されともに永990文余であった(同前)。明治4年神奈川県から足柄県を経て,同9年再び神奈川県に所属。明治年間には平塚駅と称した。明治7年上平学校開校。同22年平塚町の大字となり,飛地は大野村の一部となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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