溝口村(近世)

江戸期~明治22年の村名。橘樹郡のうち。溝ノ口村とも書き,「田園簿」および正保年中改定図(新編武蔵)には「溝口町」とも見える。また溝ノ口宿とも称した。寛永10年旗本斎藤氏知行,元禄10年・幕末ともに幕府領。村高は,「田園簿」では754石余うち田526石余・畑227石余,「元禄郷帳」754石余,「天保郷帳」「旧高旧領」ともに714石余。検地は宝永4年。寛永5年江戸近郊の鷹場となる。村内を矢倉沢往還が通り,寛文9年隣村二子【ふたご】村とともに同往還の宿場に定められており,伝馬役は月の上20日を当村が,下10日を二子村が勤め,伝馬継立は両村で馬2頭・人夫2人,問屋は当村名主丸屋鈴木家が勤めた(川崎市史)。「新編武蔵」には,宿駅ははじめ当村が勤めていたが,二子村が発達したため2村持合になったとある。同書によれば,江戸から5里,東西12町余・南北13町半,家数は113軒で,うち94軒が村の中ほどを通る街道の左右に軒を並べ,19軒が久地【くじ】村境に集落を成した。また街道沿いは下作延村境から二子村境まで上宿・中宿・下宿に分かれていた。村内蔵山(津田山付近)に約1反の御林(官有林)があるほか,土橋村大野原には4町ほどの秣場があり,有馬村などには薪木林の飛地があった。鎮守は赤城社(現溝口神社)で祭礼は8月15日,ほかに諏訪社・伊勢宮・稲荷社などがあり,寺院は日蓮宗興林山宗隆寺がある。水田が多く畑地は少なく,米・麦中心の二毛作が行われ,文化年間以降になるとナシの栽培も始められた。明和3年には池上幸豊の願い出により,関東郡代伊奈備前守忠宥から川崎・稲毛・神奈川領内の幕府領へ甘蔗栽培の触が出されており,当村へも甘蔗苗が配布された(川崎市史)。江戸期には平瀬川も地内を流れ,久地溝口二子堀・川辺六ケ村堀・二ケ領用水・根方十三ケ村堀の各用水が通った。文政4年,旱魃のため川崎領20か村と当村との間に二ケ領用水分水をめぐる大騒動が持ち上がり(溝ノ口用水騒動),同5年久地分量樋の用水差配を行っていた当村名主鈴木七右衛門が所払いになるなどの裁決が下る(川崎市史)。同10年には取締改革で組合村が結成され溝ノ口宿は寄場(親村)となる。天保元年村田三右衛門が寺子屋以誠堂を開く。以前から街道筋は良質の水に恵まれなかったが,安政3年に名主丸屋の井戸を親井戸としていくつかの溜おけまでの引水設備を完成。農間余業を含め天保9年には旅籠屋6,居酒屋・荒物瀬戸物屋各4,煮売・髪結・豆腐屋・材木屋各2,鮎商・湯屋・穀類薪炭・太物屋・青物屋・鍋釜鉄瓶屋・経師屋各1,下駄足駄造り10,傘造り3,油絞り・醤油造り・干菓子造り・紺屋各1などがある(宗隆寺文書)。江戸後期には大山道の盛況とともに繁栄し,旅人相手の商売や手工業の発達が見られ,江戸への商品を扱う大商人もいた。明治2年の戸数103・人口684うち男337・女347(同前)。同6年の溝ノ口数目調査によると,竹皮草履7万足・箒8万本・足駄2万足・傘1,500本・蝋燭200貫・茶200貫・濁酒15石・絞油35樽・醤油1万樽のほか,米830石・大麦650石・小麦300石・大豆15石・粟5石・菜種5石・柿5駄の生産高が記され,職業別人口は農業58・工業23・農兼商10・商業11・雑業5,農兼医・農兼私塾・農兼馬医各1の各戸数となっている(高津村風土記稿)。慶応4年新政府軍の尾張藩兵が溝ノ口宿を警固。明治元年神奈川府を経て神奈川県に所属。同6年宗隆寺本堂を仮校舎に溝口学舎誕生,同7年には校舎を新築して溝口学校となる。同12年醤油醸造の上田忠一郎が神奈川県議に当選,のちに自由民権運動に活躍した。同22年高津村の大字となり,飛地は宮前【みやざき】村の一部となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7305164 |




