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六浦郷(中世)


 鎌倉期~室町期に見える郷名。久良岐郡六浦荘のうち。六連とも書き六浦本郷ともいう。「和名抄」久良【くらき】郡鮎浦【ふくら】郷の地で,鎌倉期には六浦荘の政所が置かれ荘の中心であったが,金沢郷に称名寺が建立されてからはその地位を譲った。地名としては「吾妻鏡」に見えており,その建久3年2月24日条によれば,同年正月21日に鎌倉で捕えられた平家の残党上総五郎兵衛尉忠光が「六浦海辺」で梟首されており,当地は鎌倉の処刑場となっていたことがわかる。元仁元年12月26日には疫癘流行のため,執権北条泰時が四角四境鬼気祭を行っているが,東の境は「六浦」であった(吾妻鏡)。一方七瀬の御祓が元仁元年6月6日・寛喜2年11月13日・嘉禎元年12月27日などに当地で行われており,霊地の1つでもあったことが知られる(同前)。当地は景勝の地で,安貞2年4月28日には将軍藤原頼経が遊覧のため当地を訪れて宿泊し,5月1日に鎌倉に帰った(同前)。また当地には港があり,「六浦津」と呼ばれており,寛喜2年3月19日には将軍頼経が三浦半島の三崎礒に渡る際,この六浦津から出帆している(同前)。弘安年間当地を訪れた無住一任が「沙石集」に「鎌倉過テ,六浦ト云所ニテ,便船ヲ待テ,上総ヘ越シ」と記しているように(古典大系),当地は江戸湾を越えて上総国へ向かう海上交通の要路にあたっていた。これより前,北条泰時は,三浦半島に蟠踞する三浦氏と対抗するため当地を重視して,仁治元年11月30日に「鎌倉与六浦津之間,始可被当(営カ)通路之由」を決め,翌2年4月5日から御家人たちに命じて「六浦道」の工事を始めた(吾妻鏡)。しかし,なかなか進捗しなかったため,5月14日には執権北条泰時自らが土石を運んでいる(同前)。これが朝夷奈の切通で,建長2年6月3日には「山内并六浦等道路」が修理されており,山内とともに当地が重視されていたのがわかる(同前)。嘉元3年4月28日の瀬戸橋造営棟別銭注文案によれば,称名寺領の諸所に棟別銭が課されているが「五貫八百文 六浦庄(郷カ)分」と当郷にも課されていた(金沢文庫古文書/県史資2-1436)。郷名としては,聖教奥書に「正和二年二月十九日,於六浦郷関屋坊」とあるのが初見である(同前1863)。下って南北朝期の暦応2年8月22日の高師冬奉書案に「六浦以下関米事」とあり,当郷内に関所が置かれ関米を徴収していたことが知られる(京大国史研究室所蔵/県史資3上‐3463)。関所に関しては,室町期の応永29年7月17日の長尾忠政書下に「六浦庄内常福寺門前」に関所が設けられ,金沢称名寺の造営要脚として関銭が徴収されているが(金沢文庫古文書/同前5651),これは同32年11月日の称名寺雑掌光信申状案に見える「当寺修造用脚六浦庄大道関」にあたるものと思われる(賜蘆文庫文書/同前5742)。この大道関は朝夷奈の切通を抜けて下った地点にあたる。永享4年12月23日の足利持氏御教書によれば「六浦大道関所事」について,明年2月から3か年と限ってその管理権を鎌倉称名寺に寄付しており(金沢文庫古文書/同前5882),鎌倉府の管理下にあったことがわかる。貞治5年10月16日の足利基氏還補状などによれば,「武蔵国六浦本郷」が上杉能憲に返され,下地が沙汰付されている(上杉文書/同前4579~4581)。下って応永3年7月23日の斯波義将施行状では「六浦本郷」などが上杉朝宗に安堵された(同前5167)。貞治6年10月7日の足利義詮御教書によれば,「鎌倉・六浦小間別銭貨」を円覚寺黄梅院華厳塔修造にあてるよう義堂周信に命じており,翌応安元年4月2日の細川頼之奉書で施行されている(黄梅院文書/県史資3上-4609・4618)。また同3年10月3日および同4年9月10日の称名寺領上総国周東郡波多沢村検見帳に「使足分」として「壱斗・六浦といれう」,永徳3年10月日の称名寺領上総国波多沢村年貢結解状にも「一斗 六浦渡伊」と見え,当郷内に問があり,その問料が1斗であったことがわかる(金沢文庫古文書/同前4646・4670・4939)。応安6年卯月8日の日祐譲状に「武州六浦上行寺以下所々末寺」とあり当郷内に中山法華経寺の末寺上行寺があったことが知られる(中山法華経寺文書/同前4692)。下って明徳3年8月の武蔵国品河湊船帳に「鎌倉丸 々々(船主)了阿弥〈自未年成湊舟,元六浦〉」とあり,当地の湊の船であった鎌倉丸が品河に移ったことが知られる(金沢文庫古文書/同前5094)。年月日未詳の武蔵守護上杉憲方諸役免許状案によれば,明徳の頃「武蔵国六浦郷瀬崎勝福寺門前諸公事以下」が免許されている(黄梅院文書/同前5117)。ついで応永年間には武蔵守護上杉憲定が,応永35年3月12日には武蔵守護上杉憲実が同様に免許している(同前5451・5798)。応永4年正月24日鎌倉公方足利氏満に反抗した小山若犬丸の両息は捕えられて,鎌倉で実検されたのち当郷の沖に沈められたという(神明鏡/続群29上)。永享10年末から11年にかけて起きた永享の乱の際には,海老名尾張入道が「六浦引越の道場」で自害している(関東合戦記/続群21上)。文明年間,「梅花無尽蔵」の作者万里集九は「瀬戸六浦之浜」を訪れ(続群12下),「北国紀行」の作者尭恵法印も「同じ比六浦・金沢をみるに,乱山かさなりて嶋となり,青嶂そばだちて海をかくす」と記している(群書18)。戦国期の「役帳」には,小田原北条氏江戸衆武田某の所領役高として「百廿七貫文 久良岐郡六浦木曽分」,六浦社領として「八拾五貫九百五十八文 久良岐郡六浦ニ伏神生抅」,竜源軒の寺領として「卅三貫文 六浦大道分」と見える。また永禄10年と推定される卯の7月19日の北条家朱印状写によれば当地に「六浦之番匠小三郎」なる者があり,至急浦賀へ出頭するよう命じている(武文/県史資3下-7550)。なお天正18年,小田原城包囲軍中にあった細川幽斎は1日陣を離れ当地を見物している(東国陣道記/群書18)。なお江戸期には地域が狭まり,社家分・寺分・平分の3村のみを総称して六浦と呼んだ。「新編相模」にはこの3村入会の地に小名として六浦の名が見える。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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