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越後国


東急本「和名抄」は「古之乃三知乃之利」と訓を付す。古くは越(高志・古志)国の一部をなし,久比岐・高志深江の2国造が崇神朝に,高志国造が成務朝にそれぞれ任命されたと伝える(旧事本紀巻10国造本紀)。久比岐国造はのちの頸城【くびき】郡,高志国造は古志・三島【みしま】郡,高志深江国造は蒲原郡をそれぞれ本拠にしたと考えられる(県史)。越国造(日本書紀孝元天皇7年2月丁卯条)も見えるが,高志国造との異同は明らかでない。国名の確実な初見は越後の蝦狄に物を賜ったとする文武天皇元年の記事だが(続日本紀文武天皇元年12月庚辰条),持統天皇6年に越前国司が見えるので(日本書紀持統天皇6年9月癸丑条),越国から越前・越中・越後の3国が分立したのは天武天皇12年から持統天皇6年の間と推定される(日本書紀天武天皇11年4月甲申条・同12年12月丙寅条・同13年10月辛巳条)。当初は,のちの沼垂【ぬたり】・磐船郡域が国域であったが,その後大宝2年に越中国の頸城・古志・魚沼・蒲原の4郡を割いて越後国に編入(続日本紀大宝2年3月甲申条),和銅5年には同元年に建てられた出羽郡を越後国から分離独立し出羽国を新置した(続日本紀和銅元年9月丙戌条・同5年9月己丑条)。これにより磐船郡を北限とし,頸城郡を南限とする国域が確定する。なお,天平15年から天平勝宝4年までの間,一時的ではあるが佐渡国が越後国に編入されている(続日本紀天平15年2月辛巳条・天平勝宝4年11月乙巳条)。次いで貞観式が成立する貞観13年以前に古志郡から三島郡が分立し,磐船・沼垂・蒲原・古志・三島・魚沼・頸城の7管郡がそろう(延喜式民部省)。郡郷数は,高山寺本「和名抄」に7郡33郷,東急本「和名抄」では余戸【あまるべ】郷を加えて7郡34郷とある。一方,天平17年2月28日の民部省解(正倉院文書)によれば,「越後国仕丁卅二人,廝卅二人」とあり,令の規定通り1郷から仕丁1人・廝1人を貢進するとすれば,仕丁を貢進しない佐渡を除く越後国は当時32郷から構成されていたことになる(県史)。式内社は頸城郡13座・魚沼郡5座・古志郡6座・三島郡6座・蒲原郡13座・沼垂郡5座・磐船郡8座の計56座で,蒲原郡の伊夜比古神社のみが名神大社である(延喜式神名帳)。成立当初の越後国府については,磐舟柵または渟足柵にあてる説,8世紀以降寺泊町の横滝山廃寺付近に移動したとする説などがある。慶雲4年11月21日の威奈真人大村墓誌銘(四天王寺蔵)に見える「越後城」と国府との異同も問題とされている。「和名抄」によれば,国府は頸城郡に所在したとあり,初期国府が頸城郡に移動したと考えられている。具体的な位置については,上越市直江津説,新井市国賀【こつか】説,妙高村今府【いまふ】から板倉町国川【こくがわ】または新井市国賀への移動説などがある。最近では上越市今池付近が注目されている。国の等級は上国で,都からの距離では遠国とされ,陸路では上り34日,下り17日,海路は36日を要した(延喜式民部省・主計寮)。東急本「和名抄」によれば,田積は本田1万4,997町余,「拾芥抄」では2万3,787町とある。越後国は律令制下にあっても8世紀末までは,陸奥・出羽・大宰府管内諸国などとともに辺要国とされ,一般の任務のほかに饗給・征討・斥候の任務をも兼ねた。古くは大化3・4年に渟足・磐舟柵の造営と柵戸の配置,斉明天皇4~6年に阿倍臣による蝦夷・粛慎の経略が行われた。ところが延暦11年には越後国にかわって佐渡国が辺要国となっている(延暦11年6月14日太政官符/類聚三代格巻18)。これは古代国家の蝦夷・朝鮮政策上において当国の重要性が相対的に低下したことを意味する。なお,当国には,天平勝宝4年当時,頸城郡胆君郷と磐船郡山家郷に,天暦4年当時には頸城・三島・沼垂・磐船の諸郡にそれぞれ各50戸の東大寺封戸が存在したが,平安末には有名無実化している。また,西大寺領荘園として頸城郡に桜井荘・津村荘,蒲原郡に鶉橋荘・槐田荘,古志郡に三枝荘が,東大寺領荘園として頸城郡に石井荘・吉田荘・真沼荘,古志郡に土井荘が設定された。これら初期荘園は未墾の野地や荒廃田を含んでおり,経営不安定のため一部を除いて荒廃・没落していった。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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