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越後国


慶長3年上杉景勝が会津に移封したあと,堀秀治が越前国北庄(福井)から頸城郡春日山城に入った時を以て,越後の近世史の始まりとする。秀治は越後一国45万石を支配し,また与力大名溝口秀勝を蒲原郡新発田に,村上頼勝を岩船郡本庄(村上)に配した。いずれも織豊取立大名である。秀治は同年領内総検地を太閤方式で行い,同5年には越後一揆を平定して徳川氏に忠勤を尽くしたが,一揆平定は越後における刀狩りの役割をも果たした。同12年堀忠俊は頸城郡福島(上越市)に巨大な近世的平城と城下町を建設した。慶長15年堀氏が改易となり,代わって松平忠輝が入封して徳川氏一門の支配が始まった。しかし,元和2年忠輝は改易となり,遺領は幕府領および8大名,1旗本に分かたれ,越後の支配地図を特色づける小藩分立時代が始まった。同年の当国の大名は村上藩・高田藩・新発田藩・藤井藩・長峰藩・長岡藩・三条藩・沢海【そうみ】藩の8氏である。「寛文朱印留」によれば,寛文4年における当国の大名領は,高田藩が頸城郡一円をはじめ刈羽・三島・魚沼の4郡内に1,084村・25万8,103石余,村上藩が岩船郡一円をはじめ蒲原・三島の3郡内に908村・15万石,長岡藩が古志・三島・蒲原の3郡内に289村・7万4,023石余,村松藩が蒲原郡内に104村・3万石,新発田藩が蒲原郡内に250村・5万石,沢海藩が蒲原郡内に19村・8,000石,与板藩が蒲原・三島の2郡内に30村・1万石,上総刈谷藩が刈羽郡内に23村・5,500石,陸奥会津藩が蒲原郡内に71村・8,973石余を領有していた。その後も諸藩は改易と移封を繰り返し,小藩分立傾向がいっそう進展した。「旧高旧領」によれば,明治初年の当国の所領分布は,幕府領(水原【すいばら】代官所・新潟奉行所・脇野町代官所・出雲崎代官所・川浦代官所・高田藩預地・新発田藩預地・三日市藩預地・会津藩預地・伊勢桑名藩預地・米沢藩預地)1,386村・31万9,086石余,高田藩領617村・12万5,142石余,新発田藩領512村・13万2,355石余,長岡藩領434村・13万6,213石余,村上藩領194村・8万2,164石余,村松藩領140村・3万9,112石余,与板藩領75村・2万1,904石余,椎谷藩領21村・5,749石余,清崎(糸魚川)藩領81村・1万3,067石余,三日市藩領48村・1万903石余,黒川藩領43村・1万1,843石余,峰岡(三根山)藩領43村・1万5,570石余,会津藩領454村・9万295石余,桑名藩領142村・5万9,300石余,上野高崎藩領45村・2万5,057石余,上総菊間(旧駿河沼津)藩領35村・1万1,148石余,一橋家領17村・7,274石余,出羽上山藩領54村・1万3,963石余,旗本溝口真太郎知行2村・1,000石,旗本溝口双渓知行24村・5,076石余,旗本小浜盛之助知行11村・3,924石余,旗本松平田次郎知行14村・3,071石余,旗本安藤熊吉知行12村・5,088石余,旗本安西保太郎知行3村・956石余,旗本稲葉左衛門知行1村・1,000石余,ほかに除地5,378石余,寺社領4,562石余となっている(県史研究15)。近世前期には高田・長岡・新発田・村上・三条において巨大な近世城郭と城下町が建設されて特権が与えられ,港町新潟が長岡藩の保護下に発展を図られたことなど,都市の建設が進んだ。新田開発も土豪・村請・給人請新田などが領主の治水政策と相まって進展した。当国の総石高は,慶長3年には堀秀治が45万石を領有し(越後国知行方目録),ほかに会津領(津川城代藤田能登守知行高)が小川庄に約1万石あった(会津分限帳)。その後,「正保国絵図」61万1,960石余,「元禄郷帳」では3,964村・81万6,775石余,「天保郷帳」4,051村・114万2,555石余,「旧高旧領」4,409村・115万507石余と大きく増加した。なお,江戸期には当国は岩船・蒲原・古志・三島・刈羽・魚沼・頸城の7郡からなる。そのうち石高の増加がもっとも顕著な地域は蒲原平野,次いで頸城平野であった。新田開発の進展,山林の利用増加は山論を生じ,ひいては藩境・国境争論に発展し,幕府の裁許により決定したことも多かった。近世前期は越後の国境が確定した時代といえる。寛永18年上田銀山の発見により高田藩と会津藩の間に争論が生じ,正保3年銀山平と檜枝岐郷との境界が只見川の流れの中央と決した(県史)。山論をめぐる当国羽倉村と信濃国森村との国境は延宝2年天水山と信濃川縁り水斗沢を結ぶ線となった(津南町史)。貞享5年には越後小川庄と陸奥国会津・大沼・河沼3郡の境が十二ケ岳―茶箋山―大葛山―赤柴山―駒ケ岳を結ぶ分水嶺と定まった(資料上川村史)。元禄元年には村上藩と米沢藩との岩船郡における国境が蓬生戸峰通り丸岩を結ぶ線となった。しかし,その細部については問題を残し,昭和15年行政裁判所の裁定により白苧―蟻ノ塔(白布)―貂戻岩―蕨峠―戸坂ハゲと定まった(近世関川郷資料5)。元禄15年には糸魚川藩領山口村と信濃松本藩領小谷郷との境界が白池と決した(糸魚川市史2)。また,同年頸城郡高田藩領長沢・平丸・小沢・樽本4村と信濃国水内郡飯山藩領北条・顔戸・留倉・奈良沢4村の国境が黒倉山―松倉山―いけ鳥屋山―鳥屋峰―斑尾山―袴峰と定まった。享保15年越後大井平郷と信濃国箕作村との争論では秋山郷の大道山・高倉山は信濃国と定まった(津南町史)。新田開発の進展は農民の間に商品流通を促し,宿場・船着き場などに六斎市を中心とする在町を発達させた。それは初め上越・中越地方に多く,元禄年間には水原・亀田など越後平野の各所に成立した。享保年間に入ると,貨幣経済の発達に伴い諸大名の財政は窮乏してきた。一方,町人の中には貨幣を貯え,大名貸しを行い,新田開発を進める者も出た。竹前権兵衛の紫雲寺潟干拓,山本丈右衛門や水原13人衆の福島潟新田開発はその一例である。町人はまた土地を集積して大地主化し,市島家・白勢家など数百町歩を有する者があらわれた。その一方では多数の貧農層が生じ,百姓一揆が頻発するようになった。享保7年の頸城郡質地騒動,文化11年の蒲原・岩船郡騒動などがその代表例である。港町では米価高騰のたびに不穏な空気がみなぎり,米騒動が発生したが,その例として明和5年の新潟湊騒動が著名である。近世中期は地場産業が発展し特産物化した時期でもある。農間余業から特産物化した魚沼地方の縮,栃尾の紬,三条・燕の金物などは広く他国にも売られた。商品流通の発達に伴い,船をあやつって松前・西国・上方への海運に従事する者が増加し,廻船差配人となる者もあらわれた。また北国街道筋などでは抜荷が横行し,宿駅との争論が行われるようになった。巨富を得て豪農・豪商となった者は,地方文化の担い手として近世中・後期において多様な文化活動を展開した。美濃派の俳諧が流行し,国学も行われた。また僧良寛や鈴木牧之「北越雪譜」,丸山元純「越後名寄」,小田島允武「越後野志」,橘崑崙「北越奇談」などが著わされた。18世紀になりロシア船が北辺に出没するようになると,海防問題が起こり,村上の人本多利明は「西域物語」を著した。天保14年幕府は新潟を長岡領から幕領に移し,北海防御の基地とした。諸藩でも洋式兵制の採用など,財政困難の中で慌ただしい動きが見られた。安政5年日米修好通商条約で新潟が5港の1つの開港場として登場した。ただし,開港の実施は幕末の政治状況によって明治元年11月まで遅れた。慶応4年の戊辰戦争では,越後は長岡・村松・村上などの藩が奥羽列藩同盟に加担し,会津・米沢軍が来陣して新政府軍との決戦場となった。新政府軍は越後を支配下に収めると新潟府を置いた。明治2年版籍奉還,同4年廃藩置県を経て,同年当国に新潟県と柏崎県が設置され,当国は近代的な行政区画へと移行していった。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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