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加茂町(近世)


 江戸期~明治22年の町名。蒲原郡のうち。はじめ新発田【しばた】藩領,寛政元年からは幕府領。村高は,「正保国絵図」1,100石余,「元禄郷帳」1,147石余,「天保郷帳」1,426石余。新発田藩領加茂組の組元で,大庄屋がいた。明暦2年からの加茂川一帯の植林事業,万治3年の町割と市場開設は大庄屋浅野三郎右衛門が中心となって行うという(浅野家事績)。町内には肝煎,のち町年寄が置かれた(加茂市歴史年表)。慶長15年頃の給知方ほと役帳(新発田市立図書館蔵)には,紺屋役5軒・室役7軒・酒役1軒・濁酒役5軒・商人役4軒の計22軒で7石1斗を上納しており,早くから商業活動の活発な町として発展し,承応3年の年貢皆済目録にも商人役が見え,万治元年には銀1貫375匁の木役銀,延宝4年には7軒で銀42匁の鍛冶役銀の上納が見える(加茂郷土誌2)。また,新発田藩の案詞帳の正保4年の項には「馬次之村」とあり,宿場町でもあった。正保3年当町・矢立新田・加茂新田の3か町村は,隣村の下条村・天神林村との間で村境争いを起こし,慶安元年に幕府裁許が下る(市川家文書)。また天明6年にも同様の争いが生じ,境界道筋の管理などを内済する(日野田家文書)。宝永7年には百姓92軒・新町家89軒・名子6軒・間脇24軒・借家39軒の計250軒,1,584人。寛保2年の田114町余・見取田9町余・居屋敷畑17町余。寛政5年には,家数478・人数1,941,うち紺屋4軒・質屋5軒・造酒屋5軒,商人役米4石余・酒役米2石余・室役米1石余を上納し,4と9の日に六斎市,8月に馬市が開かれる(加茂市歴史年表・加茂市史上)。延享元年の町屋改めでは,町名として十一軒町・上町・本町・中町・穀町・肴町・横町が見える。町場の発展とともに火事も多く,元禄3年・同10年に大火があり,明和8年には434軒,天明6年には309軒の焼失があった。また,天明7年には地主層の市川・明田川両家の抱店,森田仙庵宅など11軒を打ちこわす騒動が起こる(同前)。寛政元年幕府領に替地後,隣村上条村の商業活動が台頭し,同村との間では寛政9年濁酒隠造,文化4年新規酒造,七谷紙荷奪取などの事件が起こり,それぞれ幕府評定所への提訴となったが当町の勝訴となり,従来の市場町の地位を確保した。上町の医師森田千庵は文化・文政年間に活躍した蘭医で,自家薬一粒丸を製した。また町年寄を勤めた小柳家でも金清丹を製し,「東講商人鑑」に載る。元治元年の「越後土産」に当地の産物として元結水引・加茂紙・戸障子・半夏が載る。慶応4年長岡城落城後,奥羽越列藩同盟軍は庄屋市川家を本営としたが,同年8月5日新政府軍が入町しその管轄下に入る(加茂市歴史年表)。明治2年三条町から民政局が移転し加茂民政局開局。同5年駅逓局加茂出張所,同8年三条警察署加茂駐屯所開設。同6年青海神社境内に加茂小学校開校。同11年北陸巡幸の途次,明治天皇が市川家に駐輦する。同12年南蒲原郡に所属。同20年加茂綿織物業組合が設立される。同21年の戸数970・人口5,198。同22年加茂町の大字となる。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7308625