100辞書・辞典一括検索

JLogos

28

刈羽郡


室町期から江戸前期の寛文3年までは苅羽郡と称されるが,寛文4年幕府は旧称を誤って沼垂【ぬたり】郡と改めた。松平三位中将(高田藩主松平光長)宛の徳川家綱判物などの公文書や寺社の準公文書はいずれも沼垂郡を用いたが,民間では苅羽郡を使っている。さらに,高田藩主として入封した稲葉正通は,元禄3年古称である三島【みしま】郡に改称している。それは,稲葉氏の本姓が越智氏で,祖神が三島の神であったからである。この古称は元禄14年戸田忠真の入封とともに改められ,また正徳2年から草冠をとって刈羽郡と書くようになる。郡内の村数と総石高は,「正保国絵図」4万8,186石余,「元禄郷帳」191村・6万9,986石余,「天保郷帳」190村・7万5,500石余,「旧高旧領」203村・7万6,073石余。慶長12年堀忠俊が福島城を築城した際に実施した普請人足の戸口調査では,郡内の戸数3,238,うち221軒が寺・庵・めくらと記録されている。領主は,堀氏の春日山藩・福島藩,松平忠輝の高田藩時代までは越後一国支配なので,当郡内も同一の変遷であるが,元和2年忠輝の改易後は,高田・長峰・蔵王・藤井の諸藩領や旗本領に分割される。同4年高田藩に松平忠昌が入封すると,当郡は旗本椎谷領(堀氏)と高町領(安西氏)を除いて高田藩に属した。高田藩に属した村々は,その後松平光長,幕府,稲葉氏と支配者は交替したが同一の変遷をとげた。天和検地に基づく「天和高帳」によれば,その所領は353村・6万1,189石余にのぼり,またこれらの村々は小国西組44村・6,590石余,柏崎町1町・256石余,小国東組28村・3,295石余,枇杷島組29村・5,876石余,上条組77村・1万1,665石余,鯖石組78村・1万5,124石余,藤井組95村・1万6,185石余に組分けされていた。しかし,元禄14年に戸田氏を迎えると,これらの村々は分割されてそれぞれ異なった変遷過程をたどる。まず,柏崎町型変遷は,戸田氏に属した後,高田藩松平(久松)氏を経て同氏の転封に付随して白河・桑名藩と名称が変わって幕末に至る。石曽根村型変遷は,元禄14年幕府領となり,天保年間以降に幕府領・桑名藩・長岡藩・出羽上山藩に再細分される。宮川村型変遷は石曽根村とともに幕府領となり,宝永3年与板藩に属して幕末に至る。また,この変遷をたどって,与板藩から幕府領を経て上山藩に属す村がある。春日村型変遷は,元禄14年石曽根・宮川村とともに幕府領となり,宝永6年に旗本安藤氏の知行地となっている。上記の諸藩のうち当郡に拠った藩は藤井藩・椎谷藩のみで,藤井藩は元和2年稲垣氏が入封したが,同6年三条に移封してわずか5年間の在封で,椎谷藩はもともとは元和2年に堀直之が当郡に5,000石を拝領して旗本となったのが始まりで,寛永19年1万石の大名となって上総刈谷藩主となり,寛文8年上総八幡藩主を経て,元禄11年陣屋を当郡椎谷に移して椎谷藩となったもので,当郡内の藩領の大部分は現西山町に属している。また,当郡に拠った旗本として安西氏がおり,上高町村と下高町村の一部を知行し,寛永年間の開発分の348石の加増を受けて848石を知行した。当郡の総石高と村数は,「正保国絵図」4万8,186石余,「元禄郷帳」6万9,986石余・191村,「天保郷帳」7万5,500石余・190村,「旧高旧領」7万6,073石余・203村。「天保郷帳」の例をとれば,村々のうち現柏崎市域が100か村,現刈羽郡域が90か村を占めている。所領構成は,「寛文朱印留」では高田藩領114村・4万3,748石余,上総刈谷藩(堀氏)領23村・5,500石。「旧高旧領」では高田藩領1村・303石余,長岡藩領19村・3,316石余,与板藩領13村・3,846石余,椎谷藩領21村・5,749石余,桑名藩領83村・4万58石余,上之山藩領21村・5,331石余,幕府領(桑名藩預所)31村・9,966石余,旗本安藤熊吉知行12村・5,088石余,旗本安西保太郎知行3村・956石余,除地1,374石余,寺社領81石余(県史研究15)。明治4年柏崎県を経て,同6年新潟県に所属。同10年の「全国農産表」によれば,主な普通農産物の作付面積は米9,315町余,大豆993町余,蕎麦277町余,大麦268町,小麦231町余,粟199町余など,農業生産額の比率は米89%,甘薯4%,大豆3%,その他4%(県史通史編6)。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7308673