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蒲原津(中世)


 南北朝期から見える津名。越後国蒲原郡のうち。当津は南北朝期に入ると軍事上の要地として重視され,小国氏ら南朝方が,加地氏を中心とする阿賀北の北朝勢力に対抗するために当地に城郭を構えた。建武3年11月18日の羽黒義成軍忠状写(鈴木中条文書)によれば,同年2月18日北朝方の大将軍加地景綱が「蒲原津御発(向脱カ)」し,同24日に沼垂湊から渡河した北朝方と当地の南朝方の間で合戦が行われた。また,建武3年12月3日の色部高長軍忠状案(反町色部文書)によれば,建武2年12月に色部高長らは蒲原津城の南朝方を攻めて,同23日に松崎で合戦をしている。暦応4年6月1日,高長らは蒲原津城を攻めて小国一族らを退散させ,城に放火した(同前)。しかし,その後も小国氏は当地に影響力を有したとみられ,明徳4年7月16日室町幕府は,「国衙内蒲原津并五十嵐保」を小国三川守と白河兵部少輔入道が押領しているのでこれを退けて,上杉憲方の代官景実に沙汰付けるよう越後守護に命じている(上杉家文書)。当津は国衙領で,関東管領・越後守護の上杉氏の支配下に入った。文安元年8月,上杉長棟(憲実)は越後国衙領半分等を次男上杉房顕に譲ったが(同前),その頃記されたとみられる上杉長棟置文によれば,越後国衙領は上杉憲房から,その子憲顕・憲藤兄弟に半分ずつ譲られ,その後数代を経て前者が長棟へ,後者は房朝へと相伝された。また長棟は,この置文で国衙領は守護職に属すべきものであると述べている。他方,永享11年10月10日には蒲原津を白川氏朝代に沙汰付けるよう命じた室町将軍家御教書(白川文書)が出されているので,白川結城氏が南北朝期から室町期にかけて当津に支配権を有していた。戦国期に入り,守護代長尾為景が守護上杉房能を自殺させて実権を掌握すると,永正6年房能の兄で関東管領の上杉顕定が越後に攻め入った。越中へ逃れた為景は佐渡を経て同7年4月20日「蒲原浦」へ上陸(榊原所蔵文書/越佐史料),反撃して6月20日顕定を敗死させた。同15年11月3日付頤神軒存奭算用状(伊達文書)によれば,伊達氏の使僧存奭は京へ上る際,沼垂【ぬつたり】の渡守に200文,ついで「かんハらの舟もり」に100文を支払い,当地を通過している。天文4年6月19日の水原政家書状写(米沢古案記録草案)によると,天文の乱で上条定憲は当津を押さえ,色部勝長をその備えとして入れている。また,6月25日付の上条定兼(定憲)書状(歴代古案/越佐史料)では,奥山・瀬波衆を当津に結集させ直ちに越河させるとあり,この頃までひき続き軍事上重要な位置を占めていた。「石山本願寺日記」天文21年4月3日条によれば,「越後蒲原之秤屋太郎左衛門」が4貫500文の志を本願寺に納めており,当津の商人の活動ぶりが知られる。しかし,その後まもなく河口部の地形に大きな変化が起こったと考えられ,それに伴って当津の湊としての機能が低下し,対照的に新潟津の台頭が見られる。永禄11年10月22日の上杉輝虎書状(東大栗林文書)によれば,本庄繁長を攻めるため出陣した輝虎は,栗林政頼に対し新潟出立の予定日を伝えるとともに,早速「三ケ津」へ着陣するよう命じている。この3か所の津とは新潟・沼垂・蒲原とみられる。なお,天文20年6月28日付長尾景虎安堵状写(藤巻文書)では,大串某に対し「三ケ津横目代官職」を安堵している。この「三ケ津」も同じ所を指すか。天正9年新発田重家が上杉景勝と対立すると,重家は一族の駿河守(俊喜カ)を新潟津に入れてこれを押さえた。この地の掌握が戦局に大きく影響したので,景勝は同10年5月24日,駿河守を味方にひき入れようとして,加地氏の一跡を宛行うことを約し,まずそのうちの「沼垂・蒲原」を宛行うと申し入れている(蓼沼文書)。当津の名はこれを最後に姿を消し,この頃までに津としての機能は新潟にとってかわられたようである。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7308865