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蒲原郡


郡内の村数・総石高は,「正保国絵図」939村・21万4,873石余,「元禄郷帳」1,432村・30万1,709石余,「天保郷帳」1,612村・53万4,468石余,「旧高旧領」1,824村・53万7,226石余。越後7郡中最大の郡で,「正保国絵図」では越後国61万1,960石余の約3分の1,「天保郷帳」では同じく114万2,555石余の約2分の1も占めている。これらの郷帳類に見える石高増加の主なものは新田開発によるもので,越後平野の開発はそのまま当郡の新田開発であり,正保年間から明治初年までの越後国の開発高の6割は当郡のものであった。領主の変遷は,慶長3年に成立した春日山藩・新発田【しばた】藩・村上藩が領し,また小川荘(東蒲原郡)は陸奥会津藩が領知した。同15年新発田藩の一部を割いて沢海【そうみ】藩が立藩した。元和2年高田藩主松平忠輝が改易されると,越後国は小藩分立時代に入るが,このことがもっとも激しく見られたのが当郡で,以後所領が複雑に錯綜し,また領主の交代も著しかった。そのうち当郡に拠った大名としては,新発田藩・沢海藩・三条藩・安田藩・村松藩・黒川藩・三日市藩・三根山藩などがあり,新発田藩が慶長3年から,村松藩が正保元年から,黒川藩・三日市藩がともに享保9年から,三根山藩(明治3年峰岡藩と改称)が文久3年から,いずれも明治維新まで存続したが,沢海藩は慶長15年~貞享4年,三条藩は元和2~9年,安田藩は寛永16年~正保元年の短期間在封しただけであった。ほかの越後諸藩領や会津・桑名・白河など他国の藩領も散在し,また幕府領も広がり,石瀬・黒川・館・沢海・満願寺などに代官所陣屋が設けられた。その所領構成(藩領のみ)は,「寛文朱印留」によれば,村上藩領504村・8万5,735石余,長岡藩領67村・1万7,973石余,新発田藩領250村・5万石,与板藩領17村・5,128石余,村松藩領104村・3万石,沢海藩領19村・8,000石,会津藩領71村・8,973石余。当郡内の幕府領については,宝永3年に川浦代官所(頸城郡)が531石余,出雲崎代官所(三島郡)が2万6,759石余,石瀬代官所が1万7,615石余を支配している。「旧高旧領」に見える明治初年の所領構成は,新発田藩領512村・13万2,355石余(北蒲原郡202村・5万6,901石余,中蒲原郡214村・5万5,253石余,西蒲原郡9村・2,056石余,南蒲原郡87村・1万8,144石余),長岡藩領83村・4万2,838石余(西蒲原郡82村・4万2,208石余,南蒲原郡1村・630石),村上藩領83村・4万9,024石余(北蒲原郡1村・32石余,中蒲原郡3村・4,484石余,西蒲原郡62村・3万7,370石余,南蒲原郡17村・7,137石余),村松藩領140村・3万9,112石余(中蒲原郡44村・1万9,109石余,南蒲原郡96村・2万3石余),与板藩領25村・6,987石余(西蒲原郡20村・5,817石余,南蒲原郡5村・1,170石余),三日市藩領48村・1万903石余(北蒲原郡43村・8,926石余,南蒲原郡5村・1,977石余),黒川藩領43村・1万1,843石余(北蒲原郡),峰岡藩領43村・1万5,570石余(西蒲原郡),会津藩領221村・4万8,038石余(北蒲原郡85村・1万4,576石余,中蒲原郡11村・4,172石余,西蒲原郡39村・7,967石余,南蒲原郡10村・1,992石余,東蒲原郡76村・1万9,330石余),桑名藩領7村・4,901石余(西蒲原郡4村・3,762石余,南蒲原郡3村・1,139石余),高崎藩領45村・2万5,057石余(西蒲原郡32村・1万9,949石余,南蒲原郡13村・5,107石余),菊間(沼津)藩領35村・1万1,148石余(中蒲原郡),幕府領は水原代官所支配299村・6万9,246石余,新潟奉行所支配3村・2,024石余(西蒲原郡),新発田藩預地65村・1万5,406石余(北蒲原郡52村・1万4,982石余,中蒲原郡4村・94石余,西蒲原郡2村・34石余,南蒲原郡7村・294石余),三日市藩預地1村・403石余(南蒲原郡),桑名藩預地144村・3万8,196石余(中蒲原郡62村・1万5,464石余,南蒲原郡82村・2万2,731石余),旗本領は溝口真太郎知行2村・1,000石(北蒲原郡),溝口双渓(池之端陣屋)知行24村・5,076石余(北蒲原郡7村・1,323石余,中蒲原郡1村・34石余,西蒲原郡1村・508石余,南蒲原郡15村・3,211石余),小浜盛之助(沢海陣屋)知行11村・3,924石余(中蒲原郡6村・2,566石余,南蒲原郡5村・1,358石余),松平田次郎(高野陣屋)知行14村・3,071石余,寺社領は900石(西蒲原郡600石,南蒲原郡300石),除地は202石余(北蒲原郡143石余,西蒲原郡58石余)となっている(県史研究15)。明治3年には新潟県(旧幕府領)を中心にかなり大規模な領地替えが行われ,新潟県・新発田藩・村上藩・村松藩・黒川藩・三日市藩・菊間藩の村々が入れ替わった。江戸中後期には俗に千町歩地主といわれる巨大地主が生まれたが,越後国内の大地主の大半は当郡内の者であった。このような階層分化からしばしば百姓一揆が起きたが,特に文化11年の一揆は村松から五泉,加茂,蒲原・岩船両郡境域に及ぶ大規模なものであった。六斎市を伴う在町の広汎な成立も重要な特色で,元禄年間頃から越後平野の各地に新田開発の進展・貨幣経済の発達を背景に多くの在町が誕生したが,その多くは当郡であり,それらの中には幕末期には織物・金物の町に発展したものもあった。また私塾・寺子屋が発達し,俳壇が増え,国学に傾倒する者もあらわれた。明治2年一部(のちの東蒲原郡)が若松県に属し,同4年残余は新潟県に属す。同6年の大区小区制再改正では第1~3大区および第17~24大区を構成した。同10年の「全国農産表」によれば,主な普通農産物の作付面積は米7万2,654町余,大豆9,771町余,大麦7,149町余,小麦5,323町余,粟1,658町余,蕎麦1,626町余など,農業生産額の比率は米71%,菜種11%,大豆4%,茶2%,綿2%,大麦2%,その他8%(県史通史編6)。同12年郡区町村編制法の施行に伴い新潟区と北蒲原郡・中蒲原郡・南蒲原郡・西蒲原郡・東蒲原郡の1区5郡に分かれる。なお,東蒲原郡は福島県に属したが,同19年新潟県に編入された。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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