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関沢(中世)


 鎌倉期から見える地名。越後国蒲原郡奥山荘南条のうち。堰沢条とも見える。建治3年4月28日の高井道円譲状案に「せきさハ」と見え,道円(時茂)から孫の彦二郎義長(義基)に譲られた(中条町役場所蔵文書)。また,義長分と義頼分の所領境の1つは「せきさハといゝつミのあひたのみそ」に置かれていた。同年11月5日の道円譲状でも当地は義長に譲られたとみられ,弘安元年5月18日「関沢」などは鎌倉幕府から安堵を得た(伊佐早文書/鎌遺13049)。永仁3年12月3日義基は当地などを嫡子義章に譲り(奥羽編年史料所引伊佐早文書/鎌遺18938),義章は嘉暦元年12月20日にこの所領を妻藤原氏に譲っている(同前/楢葉町史2)。義基・義章の屋敷は当地にあり,関沢氏を称するが,この関沢氏嫡流は北条氏と滅亡をともにしたらしく,南北朝期以降の文書にあらわれる関沢氏は義章の弟基連の系統である。康永2年12月26日足利尊氏は「堰沢条」など5か所を勲功の賞として三浦貞宗(道祐)に宛行った(反町三浦和田文書)。しかし,貞和4年10月14日の室町幕府引付頭人奉書によれば,堰沢条・金山郷は観応以来堰沢孫次郎が相模金沢称名寺の雑掌と結んで「非分押妨」を続けており,応安元年に至っても打渡されていない(同前)。応永元年の越後応永の大乱で関沢顕元は守護方に属していたが,正長元年6月9日奥山荘内関沢跡が兵粮料所として黒川基実に打渡された(反町三浦和田黒川文書)。下って,永正7年8月1日越後永正の乱の最中守護上杉定実は奥山荘内関沢孫三郎分などを中条藤資に宛行い(反町三浦和田文書),藤資は翌8年3月16日築地資茂に関沢のうちを宛行っているが(反町築地文書),享禄2年8月27日の段銭請取状に関沢顕義が署名しており(反町上野文書),関沢氏は戦国期まで存続した。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7311368