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瀬波町(近世)


 江戸期~明治22年の町名。岩船郡のうち。はじめ瀬波村と称した。はじめ村上藩領,寛永19年幕府領,正保元年からは再び村上藩領。村高は,「慶長国絵図」では瀬波村46石余,寛永19年南桃川与免相究之帳では瀬波町134石余,「元禄郷帳」115石余,「天保郷帳」180石余。享保3年瀬波町明細帳では,寛文9年検地帳高118石余は全部畑で21町余となっている。元禄末年から地先三面川畔の野地を開発し畑とし,寛延年間から田に転換していった。当町は三面川の河口にあることから湊として栄え,村上城下の外港の役割を果たした。元和7年5月22日付在府中の城主堀直竒は家老堀主膳らに宛てた書状に,「井上新左衛門殿鉛御用ノ由仰セラレ候間,去年ヨリ申シ談ジ候,御手代衆切手次第,瀬波ニ於テ相渡サルベク候」と記していることから,蒲萄鉛山(現朝日村)から産出の鉛が瀬波湊に運ばれていたことが知られる。藩では沖ノ口番所を置き出入りする船や積荷の取締りを行っていた。榊原氏時代には,加治川以北の領内の年貢米は当町の御蔵に運ばれ,同所から船積みされていた。湊近くは小六町という遊女町もあり,出入りする船でにぎわっていた。享保3年瀬波町明細帳によれば,船数は300石積1,100石積3,80~40石積32とあり,廻船業を営む者も多かった。また,町数3町,家数224,ほかに借家21,人数1,198,うち針医3・家大工2・鍛冶1・桶屋2・木挽1・船大工13。寛永19年南桃川与免相究之帳では,定納米17石余,海猟役米23石余・船頭役4石余・紺屋役8斗余・室役1石・山札(山手)役5石余・鮭網役88石余,四ケ一(口米)銀9匁・職人役銀60匁・鮭網流役銀3匁余・鮭網役金8両・鮭役銀962匁余・鉄炮役銀10匁となっており,鮭漁に関するものが多い。村上町での魚商いは村上の肴町のみに免許され,当町の者の振れ売りは許されていなかった。のちに網元・助子・肴町それぞれ3分の1宛とし,各別に口銭を取るようになり,やがて村上町への直売りが行われるようになり,安政2年肴町への売渡しを拒んだことから争論となった。網元の分はこれまでの口銭の振合いで,助子の分の城下振売りは10人に限り,在方は自由にすることなどで内済となった。当町から瀬波温泉にかけての海岸砂丘の赤松林は,耕地を海浜からの飛砂の害を防ぐため,貞享元年村上町大年寄が藩に願い出て,松苗5,000本の下附を受け,当町50間・村上町575間と分担して植栽したことに始まる。海岸沿いの軒続きの家並みのため火事は大火となり,享保20年には51軒と沖ノ口番所2か所,明和7年には家220軒と小屋50余,安永6年には80軒を焼失した。寺院は曹洞宗大竜寺・善福寺,湯殿山行者養泉寺(のち八坂神社),山伏不動院。氏神は気比大明神と末社稲荷大明神・滝不動堂。明治6年伊与部嘉右衛門宅に瀬波小学校が開校。同18年寅蔵火事と称する大火があり,全焼86軒・半焼9軒。同22年瀬波町の大字となる。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7311415