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妻有荘(中世)


南北朝期~戦国期に見える荘園名越後国魚沼郡のうち妻在荘とも書く荘域については諸説あるが,史料によれば中津川以南の赤沢が妻有荘内に属し,中津川以北の深見が波多岐荘に含まれていたことから考えて,中津川が北限で,越後と信濃の国境を南限とし,現津南町の南半にあたるとする説がある(津南町史)暦応4年6月日の市河倫房軍忠状に,倫房が5月28日に足利方として「妻在庄」に向かい,信越国境の志久見川で新田一族と戦ったとある(本間市河文書)荘内には鎌倉期以来上野新田氏の一族が居住していたが,南北朝内乱の中で新田氏が上杉氏に敗れると,妻有荘も上杉氏の支配下に入った康暦2年4月8日,室町幕府は時の越後守護上杉竜命(房方)に,当荘を関東管領上杉憲方(山内上杉氏)の代官に渡付せよと命じている(上杉家文書)以後,憲定―憲基―憲実―房顕―顕定と,山内上杉氏当主が相承した永正6~7年に上杉顕定が越後に侵入した際,顕定の養子憲房は当荘を拠点に活動している(武家事紀/越佐史料)しかし永正7年6月に顕定が長尾為景に敗れ戦死し,憲房も妻有荘を去り上野に退くと,当荘に対する上杉氏の支配は急速に後退し,長尾氏の勢力が伸びることとなった天文の乱において長尾為景は,天文4年9月22日,上田衆らが蔵王堂口へ進軍した隙をついて「妻有河東」へ放火するよう,福王寺彦八郎に命じている(歴代古案/同前)永禄4年3月11日長尾景虎は,当荘などに徳政令を出した(上杉家文書)妻有荘の名は近世まで存続したが,戦国期の中頃からは波多岐荘の荘域も含めて,津南町から中里村・十日町市・川西町を経て小千谷市真人・岩沢地方に至る一帯を「妻有荘」と称していたようである一方,この一帯を指す広域地名としての「妻有」は長享年間には用いられており,長享2年10月8日聖護院道興が当地を通った際,「渡信濃河,河在越後之有妻(妻有)見置(小国町三桶)之間」と記している(梅花無尽蔵/続群12下)なお,「太平記」元弘3年5月の新田義貞挙兵の記事に見える「津張郡」は,音が通じることから「妻有」を指すものと思われるが,詳細は不明




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7312414