新潟町(近世)

江戸期~明治12年の町名。蒲原郡のうち。江戸期は北国浜街道の宿場町,新潟湊を中心に発展した湊町。新潟浜村とも称し,税務上は明治9年まで使用された。枝郷に寄居白山新田村・青山村新田があった。永禄年間以前は日本海に面した砂丘地帯にあって浜村新潟と呼ばれていたが,信濃川左岸にできた砂州が次第に小島を形成し,やがて河中にあった寄居島・白山島のうち白山島に島村新潟と呼ばれる地帯が出現し町並みが形成されていったという。元和2年長岡藩領,天保14年からは幕府領。村高は,「正保国絵図」608石余,「元禄郷帳」では「古は新潟町」と注記され,新潟浜村と見え608石余,「天保郷帳」でも新潟浜村として608石余。当町発展の礎は元和年間の堀直竒・牧野忠成の保護優遇政策によって築かれた。元和2年堀氏は入封直後新潟諸役用捨之覚(県史資料編8)を発し,沖の口船役・商人役・あへ物役・むろ役・てんひん荷付役・あさそ役・かき役・蔵役・節供酒手役の9か条の諸役免除の特権を与えた。ただし,地子の免除はなかった。元和3年には新潟新町材木町等建設の覚(同前)13か条が発せられ,新町の建設,町座制,町方統制など町の基礎が固められた。本町(のちの古町通)は絹・布・小物・紙など,新町(のちの本町通)は米・大豆・海産物など,材木町(のち大川前通)は材木類と扱う商品も指定され,本町と新町の間には片町(のちの片原通),さらに洲崎町などが形成された。同時に肝煎10人も発令されている。寛永年間には洪水によって阿賀野川と信濃川が合流し,沼垂町側が河岸の浸食を受け移転を余儀なくされた反面,当町は河口の水深を増し,沼垂町へ入港していた諸国回船も入港しはじめ,繁栄していった。同15年には古町通の上手に神明町(現古町通1~2番町・西堀前通1~2番町)が建設され,明暦年間以前には鍛冶町・御菜(祭)堀下(現古町通10~12番町)・十七軒町・十四軒町(現本町通10~11番町)・御菜小路(現本町通12番町)が形成された。明暦年間の地子帳に現れる町名は,神明町・古町二ノ丁~六ノ丁・鍛冶町・佐兵衛新田(古町通)・浜町西側(片原通)・浜町東側(片原通)・洲崎町・本町一ノ丁・本町二ノ丁~六ノ丁・十七軒町・十四軒町・下横町(本町通)である(新潟市史上)。これらの町は信濃川の左岸に並行して東から西に大川前通・本町通・片原通・古町通・寺町通の5本の通が上流(南)から下流(北)に向かって走り,東西に交差する形で南から北へ白山堀・新津屋堀・新堀・広小路堀・御菜堀,片原通に東堀,寺町通に西堀が掘られ,表は道に,裏は川か堀に面し商品の船積みや荷揚げに便利なように整備された。また,本町は古町,新町は本町と改められ,寄居島にあった寄居白山新田村が「古新潟跡」「寺裏古川跡」などの地域と交換させられるなどほぼ現在のもととなる町並みが形成された。享保10年町絵図(同前)に見える町名に,信濃川寄り東から,大川前は上一ノ丁・下一ノ丁・二ノ丁~六ノ丁・十七軒町・十四軒町・横丁,本町通は上一ノ丁・下一ノ丁・二ノ丁~六ノ丁・十七軒丁・十四軒丁・ヨコ(横)丁・湊町・中スサキ(洲崎)丁,片原通は小揚丁・二ノ丁~六ノ丁・カヂ(鍛冶)丁・中ハマ(浜)丁・下ハマ(浜)丁・ノト(能登)丁・古須崎(洲崎)町,古町通は神明丁・二ノ丁~六ノ丁・カヂ(鍛冶)丁・十四軒丁,寺町通,シンスサキ(新洲崎)丁,小路に網屋小路・新右エ門小路・金四郎小路・平兵エ小路・与四右エ門小路・碇屋小路・鍛冶小路・三九郎小路・小原小路・柾屋小路・八間小路・吹ヤ小路・坂内小路・六間小路・ノトヤ小路・風間小路・片切小路・梅ヤ小路・貝ヤ小路・茂作小路・甚九郎小路・右近小路・角左エ門小路・次郎兵エ小路・小揚小路・権現小路・木下小路・妙覚寺小路,享和元年新潟湊商工業地域図(同前下)では,寺町通が上寺町・三ノ丁~五ノ丁・下寺町・鍛冶町・神明町と見え,さらに河口に中洲崎町・竜照寺門前・願随寺前・毘沙門寄附地・川岸通橋下艀繋場などの町が築かれ,信濃川河中に数か所の島ができ,馬屋島・ハンノ(榛)木島・附寄島と記されている。慶応2年町絵図(同前上)ではこれらの島は秣島・榛島・厩島・上島・下島と記され,喜楽丁などの町も見える。明暦2年地子帳(同前)によれば,家数1,011,文政元年の町役人答書(同前)には,家持3,000余・人数1万3,400余,店借2,400~2,500余・人数7,400~7,500,寺34。天保14年新潟浜村・寄居白山外新田・流作場新田人別帳(川村修就文書Ⅴ)には家数5,754・人数2万4,431となっている。同年の町明細帳(県史資料編8)によれば,検断3・町中惣差配年寄12・肝煎4・町代6・普請方2,宿継人馬として人足25・馬10,渡海船(150~700石)10・艀下船43・天渡船42(うち漁船27)・川船大小396,湊に出入する船10か年平均で,当国船459・西国船72・北国船1,530,橋76。湊町としては日本海側で一番の良港として栄えた。寛永20年にはキリシタン渡来に備えて沖の口御番所(水戸口番所・洲崎御番所・湊番所)が設けられている。寛文12年には河村瑞軒によって西廻り航路が開発され,一層の発展をもたらした。元禄10年には御蔵米34万4,000俵・10万8,820両など総額46万2,000両,宝永7年には御蔵米31万9,000俵・12万5,254両など総額58万1,434両の交易となっている(県史通史編3)。正徳3年には湊から積み出す米穀について売主買主双方から100両に付1両ずつの仲金を徴収,のちには各種商品にも及ぼし,長岡藩は年7,000~8,000両の収入を得たという。また,湊は信濃川・阿賀野川の水運の中心として河川交通を発達させて,十日町・六日町・津川などの内陸部まで延びていた。しかし,享保16年阿賀野川が再び信濃川と分かれたため水深が浅くなり,入船数は激減した。そのため水戸教と呼ばれる水先案内人が置かれて伊藤家が世襲し,入港船見張りのため日和山に船見台が築かれている。天保14年天保改革の1つとして当町が幕府に上知された。直接のきっかけは天保6年・同11年の唐物抜荷事件で,長岡藩はこのために上知に反対ができなかったという。この事件で活躍した幕府役人川村修就は初代新潟奉行として手腕を発揮し,仲役所の改革によって当時5,500両ほどの仲金徴収が1万1,800両に倍増したという。安政5年米・英・仏との間で結ばれた修好通商条約の開港すべき5港中に当町が記されたが,最終的には明治元年に開港されている。しかし,実際に来港した外国船は少なかった。町の統治は長岡藩から派遣された町奉行2人が中心であったが,実際には検断以下の町役人によって取りしきられ,白洲は町奉行所ではなく町会所に設置されていたほどである。これは川村修就が新潟奉行となるまで続き,彼は着任早々奉行所内に白洲を設置するなど町政を掌握しようと努めたという。この町役人への反感から起こった事件が新潟明和騒動であった。当時湊への入港船舶の減少や米価の高騰によって町民の困窮が高まりつつあった中に,明和4年長岡藩は1,500両の御用金上納を命じてきた。同5年涌井藤四郎を中心に上納延期を願う集まりが西祐寺で開かれたが,この集会が徒党であるとして藤四郎が入牢処分を受けたことをきっかけとして打毀が起こった。藤四郎の出牢によっても騒ぎは収まらず,検断など特権的町人の家24軒が打ち壊されたという。こののち藤四郎によって町政が運営され,米の配給・安売り,質屋の増設などを行った。しかし藩によって中心人物は次々と逮捕され,藤四郎と岩船屋佐次兵衛が獄門となった。のち寛政9年には慰霊碑が題目庵に建てられた。こののち文政11年・同13年にも打毀が起こり,同13年の打毀は100軒以上に上ったという(県史通史編2・3)。神社は,安永8年新潟改記(新潟市史下)に,氏神神明宮(末社稲荷大明神・天満宮),神明宮・愛宕権現・熊野権現・住吉大明神。寺院は,天保年間には浄土真宗本願寺派本浄寺・西祐寺・蒲原浄光寺・北山浄光寺・蓮念寺・玄証寺・光林寺・真行寺・長音寺,真宗大谷派超願寺・本来寺・浄泉寺・円成寺・西入寺・勝念寺・応瑞寺・真宗寺・伝教寺・真浄寺・長祐寺・宝樹寺・正福寺・唯称寺・勝楽寺・即徳寺・円応寺・泉性寺・林松寺・本明寺,真宗仏光寺派願随寺,浄土宗善導寺・摂取院・安養院・浄行院・長善寺・往生院・蓮入庵・如来寺・竜勝寺,日蓮宗長照寺・本覚寺・法雲院・妙覚寺,曹洞宗法音寺・瑞光寺・宗現寺,真言宗宝持院・大円寺,山伏大楽院・万善寺(同前)。明治5年に着任した県令楠本正隆は当町の改革に着手し,当時ほとんど町に接続していた島の開発を命じ,白山神社境内にあった米蔵を取りこわし,神社から土地を上知し,これを新潟遊園と称するなどとともに町内の改編を行い当町は175町1村になった。同12年新潟区となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7313517 |




