100辞書・辞典一括検索

JLogos

35

礪波郡


天正13年潤8月越中に進出した前田氏は,越中一向一揆の勢力をなくすために,その拠点であった井波【いなみ】町に対して瑞泉寺の寺内町に対立する「羅く市楽座」をつくり,新しい商人を造成し,従来よりの寺内特権を解体させ,一方で新たに市立てをし,近世的な市場町としての再編を図った。元和を過ぎる頃には礪波郡の立野【たての】・佐加野【さかの】・安居【やつすい】・戸出新【といでしん】・埴生などに市を新設している。一方農村に対しては,在地の大百姓に扶持を与え付近の村々を裁許させることによって,一向宗寺院により講として掌握されていた村の解体を図った。慶長10年の総検地以後,3代藩主利常は慶安4年から改作法を実施し,明暦2年8月には村高・村免・小物成などを定めた村御印(村ごとの年貢割付状)を下付し,取立ては,藩の代官としての十村【とむら】に一任した。由緒書によれば慶長の頃中条【なかじよう】村又右衛門ら5名が礪波郡の十村として知られるが,元和5年には1組が10数か村~20数か村よりなる28の十村組(五箇山【ごかやま】を除く)があった。寛永12年の組替により12組に減らされ,改作法の施行に伴って承応元年には8組(ほかに五箇山2組)に整備されるが,以後天保改革まで十村組の区画に異動はなかった。また十村を指導する者に礪波射水御郡奉行がおり,役所ははじめ射水郡小杉新【こすぎしん】町に置かれたが,文政4年には礪波御郡奉行として独立して,杉木新【すぎきしん】町に「御出役所」が設置された。礪波郡(平野部)は庄【しよう】川と小矢部【おやべ】川の扇状地よりなるが,その開発は古く,元和5年の記録に出てくる村数は475か村で,家数は4,174軒に及んだ(利波郡家高ノ新帳/川合文書)。庄川の洪水の心配のなかった平野部周辺はいうまでもなく,扇状地においても微高地を中心に村は成立し,現存する集落の核が既に近世初頭までにはできあがっていたといえる。寛文10年加賀藩は庄川谷口の弁才天前に大堤防を築き,庄川の水勢を中田川(現庄川)に固定する工事に着手したが,完成に44年を要した。松川除の築堤以後礪波平野は安定し,千保【せんぼ】川など庄川の旧分流跡の開発が急速に進んだ。正保3年の高は20万2,111石余(礪波郡の御朱印高であり,加賀100万石の5分の1を占めた)で,ほかに新田高として1万8,751石余(五箇山を含む)があったが(越中国四郡高付帳),寛文10年の御印高を集計すると礪波郡は582か村で草高23万7,034石余となり,その後も新開や手上高などにより石高の増加は緩慢に続き,嘉永6年の礪波郡は696か村で草高は25万4,318石余(うち五箇山は70か村で5,864石余),そのほかに「組高帳不入一村立高」など1万2,770石余の新開高があった。定納高は12万1,520石(うち五箇山2,685石)である。百姓総家数は2万7,841軒(うち五箇山1,247軒),同人数は15万5,084人(同9,388人),作馬1,605匹・駅馬109匹・牛235匹(うち五箇山130匹),寺庵は一向宗が171・修験11・真言宗など15,神主10という状況であった(嘉永6年御改作所江書上候巨細帳〆書帳/菊池文書)。藩政期を通じて礪波郡は加賀藩随一の米の産地であった。蔵米は伏木【ふしき】港から大坂に回送されたが,そのため川上御蔵米は鴨島・津沢に馬下げし,そこから小矢部川を利用し,また川下御蔵米は直接に小矢部川・庄川を利用して伏木に川下げした。また礪波地方には給人知行地からの収納米を預かる町蔵が,今石動【いまいするぎ】・城端【じようはな】・福光・戸出・井波・福野【ふくの】・杉木新・中田にあった。町蔵米は地払いされ,多くは金沢に運ばれた。礪波地方の宿駅は埴生(駅馬48匹)・今石動(同59匹)・立野(21)・城端(l3)・井波(14)・中田(28)にあり,寛文6年に常置すべき駅馬が定められた。布業は近世はじめには農村副業としてかなりの広がりを見せ,加賀藩主も領内の名産として幕府に献上し,宝永年間礪波地方で生産された布は12万疋に達した。かくて高岡・今石動町の布業は,天和以来所方第一の産業に発展した。城端の絹も近世はじめから起き,元禄年間には同町戸数689軒のうち375軒が絹に関係し,そのうち絹屋は186軒に及んだ。城端絹は寛保年間1万5,000疋,享和年間2万7,000疋で,以後大体2万~3万疋であったが,嘉永期以降は5万疋を超えた。隣町の井波町でも絹が生産され,文政期以降は2万~3万疋にもなった。文政11年以降は江戸十組問屋にも販売された。福光町近在の才川七村・土生【はぶ】村などから瑪瑙が発掘され,印籠などの下げ物,緒〆石に利用されていた。井波町では蚕種が生産され,元禄期に既に6万枚に達し,越後・出羽・信濃・甲斐・飛騨・美濃・尾張にまで販売して,井波町第一の商売であった。また小矢部川に沿う福岡町を中心とした約50か村で菅笠が作られ,その産額は幕末元治年間に210万蓋に達した。加賀藩は高清水【たかしようず】山地によって礪波平野と隔絶された五箇山に対して,塩硝(硝石)を造らせ,また流刑地とした。米作には礪波地方では早くから干鰯【ほしか】を利用しており,天明年間には20万俵もの量に達し,化政期から北海道松前産の鰊肥の使用が始まり,弘化期に至ると50万貫,慶応期には130万貫に達した。明治2年6月の版籍奉還により加賀藩は廃せられ,礪波郡は金沢藩の管轄下に置かれた。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7320414