長沢村(近世)

江戸期~明治22年の村名。婦負郡長沢郷のうち。富山藩領。正保4年の村高は1,181石余,うち田が1,176石余,畑が4石余(高付帳/県史近世下)。享和年間には古高727石余・免5.4,新田高231石余・免1.3。ほかに銀納畑5,455歩10か所代銀75匁8分7厘・柳差役11匁5分・鮎川役50匁・豆腐役3匁・川原役11匁3分2厘・山役銀15匁3分8厘・川原役2匁5分2厘(蓮花寺村より上る)・山役銀22匁8分4厘(羽根村より上る)・同5匁(蓮花寺村より上る)となっている。また宝永元年より宝暦11年まで,山田川および辺呂川による水損と思われる永引高が34石余(富山藩高物成帳)。なお他村でも同様であろうが,川に漁業権が村または個人に与えられ,それが子孫に継承されているが,その漁業権をめぐる争いの資料が「婦負郡誌」に載せられている。それによれば享保2年,長沢村喜兵衛の子孫の孫兵衛の申し立てで,祖先が加賀藩2代藩主利長より山田川鮎川裁許を許されて,御印状も与えられ,井田川落合より上流は湯船大泊りまで裁許し,年に役銀50匁あて上納していたが,親の代から身代が悪くなり,婦負郡愛宕村へ引っ越し,その際御印状を長沢村五左衛門に預け,川裁許も依頼したが,これを取り返したいと藩当局へ訴え出たのに対し,五左衛門は孫兵衛は養子であり身持ちが悪く,かつこの御印状も自分が彼の親から引き継いだものであると反訴している。なお,喜兵衛の裁許下で漁業に従事した者の名として,富崎村左治兵衛・吉右衛門・左太郎・利右衛門・久蔵・徳右衛門・源左衛門・孫重郎の名がある(婦負郡誌)。天保年間の村高は1,392石余(天保郷帳)。また慶応4年の家数・人口は82軒・383人,うち高持47軒・253人。鎮守は稲荷社で4月8日と8月28日が祭礼日である。寺院として真言宗の各願寺,真宗東派西光寺,同寺の寮である光円寺の3寺がある。各願寺は大宝元年の開基と伝えるが,藩政期には初代富山藩主前田利次から屋敷・山林の拝領があり,2代藩主正甫も各願寺の九重桜をめでてしばしば来遊し「長沢山各願寺観花の詠」と題する長歌・短歌を残している。また藩儒南部景春も各願寺の昔日の繁栄をしのび「長沢各願寺の記」を残している。西光寺は宝徳元年の開基と伝えるが,この寺には慶応3年の浦上キリシタン四番崩れの際,同寺には同宗徒の首領格であった重次郎の妻きくとその子とめが預けられ,彼らが伝えたと見られる一文銭を十字架状につないだ遺品等が残されている。なおきくは同寺で死亡し,近くの鏡坂にはきくを祀ったと伝える祠がある。また同村の村役人としては富山藩の十村役をつとめた谷井佐次兵衛,村肝煎として喜兵衛・市兵衛の名が知られている。明治9年石川県,同16年富山県に所属。同22年婦負郡古里【ふるさと】村の大字となる。明治6年光円寺に長沢小学校,同9年には数井養作宅を借りて通明小学校が開校している。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7320523 |




