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風無村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。能登国羽咋【はくい】郡のうち。加賀藩領。寛永3年7月付の東本願寺教如影像の裏書(万福寺蔵)に「□□村七ケ之□風無村」と見える。万福寺蔵の方便法身尊像裏書写には,「天文十□甲辰閏十二月四日,本念寺門徒,能登国藤掛郷風成」とある。寛文10年村御印の村高は170石,免7ツ,山役376匁・苦竹役9匁・猟船櫂役1,265匁・網役209匁・外海船櫂役213.5匁・間役88.2匁・三歩半口銭467.7匁。延享3年と推定される六拾四ケ村明細記(安成寺文書)によれば,元和6年検地御印高165石,明暦2年手上高5石,定作食米10石,家数は百姓39・頭振18。また,天保年間の「羽咋鹿島両郡拾壱組村々高免人数等」によれば,村高172石,家数は百姓93・頭振70,人口は男406・女392,稼ぎとして木綿を産出し,猟業や舟水主に従事した。中でも漁業を主としたことから,近村諸村との海境争いがしばしばあり,嘉永2年には猟船36艘があった。また,文化2年に1隻,嘉永2年には5隻の渡海船があり,海運にも従事。真宗大谷派万福寺は,文和元年,僧慶誓によって建立されたと伝え(寺社由来),天文13年,方便法身尊像,慶長8年,親鸞影像,同19年,太子・七高祖影像が下付された(万福寺文書)。鎮守に神明宮があり,文政3年には9尺四方の社,宮地95歩があった(曽原家文書)。明治5年に度会社と改称。同年石川県に所属。同年の戸数167,同16年の戸数190・人口914,漁戸26・漁船40艘があった。明治8年風無小学校設立。同22年西海【さいかい】村の大字となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7324021