100辞書・辞典一括検索

JLogos

49

正院村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。珠洲郡のうち。加賀藩領。承応3年の村高721石余。寛文10年村御印の村高757石,免6ツ,山役393匁・外海船櫂役63匁・猟船櫂役80匁・網役257.6匁。十村組の変遷は寛永年間正院組,安永年間飯田組,文政年間三崎組,天保年間正院組に所属。文政年間の家数129。「能登志徴」によれば「往古宮寺并人家多有之に付正院町と唱申由伝候」とあり,町立てであった。また「本願寺申物帳」にも元和3年7月9日下付の御書の宛行として「正院町西光寺下」と見える。近世末期には正院村産の干イワシ100俵・干アワビ1,700枚・マグロ15本・油粕2,000貫・灰400俵・ねいごほうき1,450本などが,加賀・越中・七尾などへ積み出され,特産の素麺は従来の津出以外に,弘化2年さらに8,000個の津出を願い出ており,松前から但馬に至る一円が販路であった。船宿に岸田三右衛門があり,同家は文政年間草高127石を所持していた(成之坊家文書)。天保初年ごろ,弥蔵が始めた陶器を正院焼(弥蔵焼)といい,日用雑器がほとんどで,青九谷系の作風であったが,嘉永年間に廃窯。元治元年の酒屋2軒で,110石を製造(三百刈甚作家文書)。収納蔵・塩蔵が1筋ずつあった。明治4年の製塩高6,738俵・従事戸数8。幕末期,外国船の接近に備えて,安政5年から明治3年にかけ沿岸より1,500m奥の正院山(御山・在住・役屋敷)に加賀藩士が38人住み,金川下流左岸に砲台を築いて海岸防備にあたった。寺院に真宗大谷派西光寺,同地中に善証寺・光照寺,日蓮宗本住寺がある。西光寺はもと清竜寺(清涼寺)と称する真言宗寺院であったといい,山中の暴徒坂あるいは八箇山にあったと伝え,文明3年清涼寺住職智門が蓮如に帰依し,蓮崇と名を改め,真宗寺院となったと伝える(寺院明細帳)。ただし「貞享書上帳」では元亀3年玄祐開闢としている。同寺に伝わる「親鸞聖人絵伝」は,もと加賀国河北【かほく】郡木越【きごし】光徳寺に下付されていたもので,文明3年6月25日の蓮如の裏書を有し,石川県下に遺存する同絵伝では3番目に古いものである。本住寺は永禄2年日乗によって建立されたと伝え,海運業者・商人などに支えられていた。桜田門外の変に参加した水戸浪士が一時当寺に身を寄せていたとの伝えもある(珠洲郡誌)。神社に後土・神明・八幡宮(別名長浜八幡神社)があった。八幡宮について「能登名跡志」には「昔は猿楽などあり賑はしく,今も舞台などあり」とあり,舞台については寛文12年,文政2年再興,再建の棟札が伝来。この神社は元慶7年に山城雄徳山より勧請し,八丁八之田に鎮座したが,弘長元年現在地に遷座し,文明14年長谷部光信が社殿を再興したと伝える(棟札)。正八幡宮・須受八幡宮・八幡宮の名を経て明治15年長浜八幡神社と改称。江戸期末,寺子屋教育を行った人物に円木立処・黒川某がいた。明治5年石川県に所属。同6年の戸数237。同9年正院小学校創立。同10年耕道小学校と改称。同18年正院小学校と復称。17年には飯塚分校も設置された。明治11年,真宗大谷派本願寺第21世厳如の巡錫に際し,海岸防備にあたった加賀藩士の火消道具を利用して正院火消組を組織し,郡内のさきがけとなった。明治21年巡査駐在所設置。同22年正院村の大字となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7325490