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宮永郷(中世)


 室町期から見える郷名。加賀国石川郡のうち。「康富記」文安5年8月21日条に,「依招引参向殿裏築地亭,就加州宮永郷事,有談合子細者也」と見えるのが初見(史料大成)。裏築地・裏辻などと称された正親町家の所領であった。「康正二年造内裏段銭并国役引付」では,正親町家は段銭として18貫275文を幕府へ納入しているが,ここで「是時庄之内宮永郷」の記載は宮永郷が是時【これとき】荘内に所属することを意味するものか,または是時荘のうちと宮永郷とを並列させるものか判然としない。なお,「天文日記」天文5年10月22日条に,「裏辻知行宮永郷 江沼郡也」とあるのは石川郡の誤りであろう。同史料天文5年閏10月6日条に,南禅寺瑞雲庵領10か所の知行申付の要請を記しているが,その中に「宮永郷内花継名」が見え,天文年間ごろ郷内花継名が南禅寺の瑞雲庵領であったことが知られる。なお,「尊卑分脈」に載せる加賀斎藤氏林系の庶流として見える「宮永七郎国員」の流れは,宮永郷付近での開発に着手し土着した開発領主と考えられ(加賀三浦遺跡の研究),「官地論」の中で長享一向一揆の際守護富樫政親の被官人の中に見える「宮永八郎三郎」「宮永左京進」はその流れを汲むものと考えられる(蓮如一向一揆/思想大系)。「実隆公記」享禄2年11月29日条や同年12月10日条によれば,正親町実胤は本願寺坊官下間筑前頼秀がからむ宮永郷の知行問題で,三条西実隆とたびたび談合している。当時三条西実隆が正親町実胤のために作成した案文と推定される書状案(在所宛か)には,宮永郷が押領されようとしていることがうかがわれ,同年11月28日付の滋野井宛三条西実隆書状案には,「子細ハ権大賀州知行,如水か子申給て奉書を付候」とあって(実隆公記紙背文書),その背景には当時将軍足利義晴に対抗し,細川晴元・三好元長に擁されて和泉国堺にあって足利義維【よしつな】が,正親町実胤の所領を如水の子に与えようとする動きがあった。在所における宮永郷押領の動きは,当時細川晴元方にあった本願寺・下間筑前と結ぶ超勝寺・本覚寺方の門徒の行動と考えられ,加賀における賀州三ケ寺派の国衆と超勝寺・本覚寺方との抗争である享禄の錯乱を引き起こした動きの1つと考えることができる。宮永郷の一向一揆勢力としては,「天文日記」天文6年8月6日条に見える「宮永専誓 専西子」があり,これはその2年後天文8年12月12日条には「宮永極楽寺」と寺号を名乗っている。宮永の極楽寺は,天正19年と推定される超勝寺下分并本覚寺下分書上の中に本覚寺下分として見えている(本願寺文書/富山県史)。また「言継卿記」天文11年1月13日条に載せる天文10年12月26日付の内蔵寮下文に,「加賀国河北・石河両郡絹屋座中」の代表の1人として見える「宮永三郎右衛門尉安清」も,宮永郷の長【おとな】衆と見られる(一向一揆の研究)。現在の松任【まつとう】市宮永町・宮永市町・宮永新町の付近に比定される。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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