本折村(中世)

戦国期に見える村名。加賀国能美【のみ】郡のうち。「廻国雑記」に「もとおりを通り侍りけるに,人のきぬを織りけるを見て」とあるのが初見。当地は中世の加賀絹生産の中心地であり,「天文日記」天文22年4月9日条に「本折三日市」と見え,当地で市が開かれていたと考えられる。また同日記天文8年10月16日条に,「如法院宮ヘ,御返事遣之,仍御領之儀,今度者六ケ所之注文也,……残三所者今度始而承候,不申付之,其在所者本折村領家方」と見え,当時は京都の如法院領であった。下って,永禄5年4月17日付の本願寺門跡雑掌宛の幕府奉行人連署奉書によれば,「西郡知行分加賀国能美郡南北白江庄・本折村・吉武村・野代庄」などを一円幕府料所とし,内田出羽守を代官職に任じた旨を告げ,申し付けを依頼している(後鑑所引古文書)。また,戦国期には,一向一揆と越前朝倉勢・織田勢との交戦における要衝であった。明応3年10月,朝倉勢に対し甲斐牢人方および加賀一向一揆の連合軍は,当地にも布陣した(大乗院寺社雑事記)。享禄4年9月5日朝倉教景の子景紀は当地に陣し,同10月26日には当地を出発して手取川を越えている(朝倉始末記)。さらに永禄7年と推定される10月13日の朝倉義景感状には,「去月十七日,於加賀国能美郡本折口合戦」と見える(保阪文書)。「信長公記」によれば柴田勝家を大将とする織田軍は,天正5年8月8日本折村を,天正7年8月9日には本折を焼打している。当村は近世の出町(現本折町)の範囲より広く,「三州志」に「小松町,昔は上口三日市町の方を本折と呼びしと也」とあり,小松町の南半に相当する。なお嘉吉元年12月24日の細川持之判書(美吉文書)に見える「本折但馬入道」は,本折の地名を冠した国人で守護富樫教家の被官であると思われるので,地名は室町前期にさかのぼる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7328326 |




