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本吉町(近世)


江戸期~明治2年の町名加賀国石川郡のうち手取川河口に位置するもとは藤塚といい,現在も藤塚山王社がある明応8年,藤塚村と羽佐場【はさば】村を合併し,山王社の別当元吉寺の号をとって名づけた承応元年佳字をとって本吉と称した(石川郡誌)加賀藩領江戸期に入ると手取の流路も安定し,河口は船溜りとして利用され,停泊する船も次第に増加し,浦方奉行が置かれた承応元年には,本吉町奉行が置かれ町立てとなった(石川郡誌)寛文年間には南町・中町・北町の3町家数217戸があったが,延宝年間になると新町・永代町・今町・神幸【じんこう】町・浜町の5町が増加,元禄年間には末広町・和波町が加わり10町となる享和3年には家数1,017に達した(美川町近代産業史)寛文10年村御印の村高575石,免7ツ,鮭役545匁・鱒役59匁・外海引網役309匁・外海船櫂役3貫18匁・猟船櫂役182匁5分・尻巻網役60匁・六歩口銭75匁・九分三分口銭308匁江戸中期には,年間の出入船舶数が1,500に及び,その船税額は加賀第一の港町として繁栄した竹内屋・古酒屋・明翫屋・清水屋・上野屋・川原屋・角屋などの回船問屋が軒を連ね,和船の造船所もあった(美川町文化史)しかし浜風が強い所に人家が密集し,町を貫流する河川がないためにしばしば大火に遭った宝暦8年には全町が焼失し,安永6年には,300戸が全焼,天保5年には,1,046戸が焼失し,残ったのは26戸という状況であった文久元年火消組が初めて設けられた(美川町近代産業史)文久3年の戸数1,187・人口4,661(石川郡誌)天保7年に米1升が173文に高騰,200人余の窮民が浜町の米小売商新村屋仁左衛門家,片町の紺屋三郎兵衛・紺屋又助・明翫屋伝兵衛の家を打毀した事件後,首謀者が摘発できず,町年寄とその見習の2名が免職されたにとどまった(続漸得雑記)幕末には岡田・米光屋・小川・竹内・松任屋などの寺子屋があり,また開道館が真言宗世尊寺内に設けられた(美川町史)本吉港は,加賀米の移出港として,肥料・海産物・木材などの移入港として栄えたが,江戸中期ごろに手取川は現在の流れに近い1本の主流となり,次第に土砂の堆積が増し,深刻な問題を生じた船の出入が困難になり,港もさびれ,港に依存して生活している多数の者も生活が苦しくなっていった文化11年冬期,港内に係留した船舶60文化14年には30と減少し,200石以上の船が他所へ行く状況であった(美川町文化史)明治2年,能美郡湊【みなと】村と合併し美川町となる




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7328336