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安賀荘(中世)


 鎌倉期~戦国期に見える荘園名。遠敷郡のうち。南北朝期から「あがり」とも称す。暦仁元年12月3日の太政官符に,延暦寺大法師円尊が師の大僧正円基から相伝した所領のうちに阿字不動院領「若狭国安賀庄」とあるのが初見で(勝尾寺文書),のち建治2年10月21日には大僧都慈基が相伝しており(同前),山門領であった。文永2年11月の若狭国惣田数帳案の新荘のうちに安賀荘67町4反74歩とある(京府東寺百合文書ユ)。また同帳案に若狭一宮・二宮の神田1町3反が「安賀郷」にあると記されているから,厳密にいえば安賀郷のすべてが荘園化したわけではない。安賀荘の公文は若狭最有力在庁官人であった稲庭時定子孫の鳥羽国範(西迎)で,国範から子の国茂へ譲与されていたが,国茂の母の鳥羽尼心蓮が孫の季継に譲ったことから争いとなり,建治2年の春には心蓮ならびに彼女を支持する脇袋(瓜生)範継と国茂との間に合戦があり,10余人が死傷したという(東寺百合文書京・白河本東寺文書/鎌遺12790・12791・12792)。またこの頃荘内の万代名のうち数町を知行していた出浦重親は従兄弟の松田光阿にこの地を譲与し,嘉元2,3年頃は光阿の子の頼成が跡を継いでいた(安倍武雄所蔵文書/小浜市史諸家文書編)。南北朝期の康安2年5月3日のヘカサキ重雄書状の端書に「山門領アカリ」という追筆があるが(東寺百合文書ツ),これは当荘に半済が行われたことを示す記事と考えられ,また「アカリ」の呼称もこの時代から知られる。この半済が原因となってか,山門と守護一色氏との対立も強まり,応安2年正月15日に当荘の山徒金輪院が一色氏に反抗するという事件が起こり,これをきっかけとして同4年の若狭国人一揆がおこる(若狭国守護職次第/群書4)。この一揆の敗北により,一揆方の鳥羽・脇袋氏もまた没落した。こののち室町幕府が当荘に支配権を及ぼすようになり,同6年12月まで京都の北野天満宮が当荘を支配しているのは,幕府の寄進によるものとみられる(北野神社引付)。永享7年8月11日に将軍足利義教は,延暦寺衆徒の強訴事件に関連して焼失した延暦寺根本中堂造営料に当荘をあて,幕府納銭方の正実坊がその奉行職に任じられた(尊経閣文庫所蔵文書・佐藤行信氏所蔵文書)。戦国期になると明確に幕府料所となっており,永正2年以前に近江の国人朽木氏が代官に任じられており,年貢銭は近江国高島郡保坂関を経由して京都に運ばれている(内閣朽木家古文書)。戦国大名武田氏下での料所安賀荘の年貢収納については「大館常興日記」の天文7年9月3日条~同11年5月11日条まで断続的に記事が見える。それを概観すると,若狭の幕府料所の年貢収納については武田氏が全体として責任を持つが(天文9年3月14日条),個々の料所には代官が置かれており,安賀荘の代官は熊谷弾正大夫勝直であった(同年4月14日条)。幕府側で催促などを担当していたのは幕府奉行人の飯尾尭連であり,年貢銭は宮内卿殿御局のもとに納入された(同11年5月11日条)。当荘は「大庄」であると見え(天文9年4月1日条),武田氏は年貢加増を承知したとも見えている(天文9年3月14日条)。天文8年度分の納入状況から判断して,1年間の年貢銭は250貫であったと考えられる(同9年4月14日条・6月8日条)。元亀3年9月の将軍足利義昭に対する織田信長の異見書のうちに,安賀荘代官職について粟屋弥四郎が訴えてきたので,信長は義昭に取り次いだが,義昭はこれを無視したと記されているので(尋憲記元亀4年2月22日条/大日料10‐10),幕府滅亡まで料所であったことがわかる。その他,文明15年9月14日に「安加庄勢大夫吉延」が明通寺寄進札に見え(小浜市史金石文編),弘治2年6月の明通寺鐘鋳勧進算用状には「あかり村」とある(明通寺文書/小浜市史社寺文書編)。なお,当地には安賀里城跡がある。「若狭郡県志」によれば,粟屋氏出城跡は「上中郡安賀庄村山頭有粟屋式部丞出城之跡矣」とある。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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