川島村(近世)

江戸期~明治22年の村名。越前国今立郡のうち。はじめ福井藩領,貞享3年幕府領,享保5年から鯖江藩領。村高は,「正保郷帳」1,784石余うち田方1,408石余・畑方375石余,「元禄郷帳」「天保郷帳」「旧高旧領」ともに1,784石余。嘉永2年年貢割付状によれば,年貢率3割4厘4毛余,夫米・山手・茶役・木挽役・紺屋役・桶屋役などがあった。用水は鞍谷川を水源とする水落用水,河和田川を水源とする八ケ用水から取水した。元禄2~4年河和田川筋の用水をめぐって落井村と水論となり,幕府の裁定におよんだ(武内家文書)。文久2年八ケ用水の取水堰をめぐり当村・新堂村と下戸口村との間で紛争がおこった。鞍谷川筋の水論は,当村と南中津山村・北中津山村・新堂村との間で,安永7年・寛政年間・弘化4年・文久2年・慶応2年に悪水処理・竹木伐採・浚渫などをめぐって発生した(川島区有文書)。嘉永4年当村の新四郎によって村内服部川の屈曲340余間を順流とし,出水の防止と河川敷の耕地化が計画され事業に取りかかったが,かえって水勢が早くなり田畑に水がかからなくなり,失敗した。安政4年私利私欲がなかったとして,新四郎は身代限り村方へ弁済し,事業に関する拝借金の返済は村方で引き受けることとなった(同前)。明治3年には,川下の松成村・吉谷村・四方谷村との間で田中湯について取りきめが行われた(同前)。地内の西端に「延喜式」に見える加多志波神社がある。南北朝期,新田義貞についた河島左近蔵人維頼の信仰が篤く,近隣数か村の鎮守として栄えた(今立郡誌)。付近に追儺面(国重文),木造聖観音菩薩像を安置する通称下堂様の社殿,および蓮華寺跡がある。蓮華寺には河島維頼が後醍醐天皇の勅許を得て建立した五重塔があったが,江戸初期に倒壊し,その跡には塔仏堂が残る。鯖江藩寺社改牒では,浄土真宗本願寺派の専立寺・浄願寺,八幡宮などが見える。浄願寺の境内には河島維頼の墓と伝えられる五重塔がある。年頭の「おこない」,いわゆる厄払いの神事は2月11日に加多志波神社で行われ,厄年の男性による餅まきが催された。明治4年鯖江県,以降敦賀県,石川県を経て,同14年福井県に所属。明治初年川清小学校創立。「改正敦賀県管轄区分表」では戸数134。同22年北中山村の大字となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7330588 |