新保村(近世)

江戸期~明治22年の村名。敦賀郡のうち。はじめ福井藩領,寛永元年小浜藩領,天和2年からは旗本酒井氏知行(井川領)。村高は,「正保郷帳」では田方186石余・畑方26石余,計213石余,「元禄郷帳」でも同高,「天保郷帳」216石余,「旧高旧領」217石余。享保12年の庄屋は彦七(持高19石余),家数49(高持23・無高25・寺1)・人数322,牛5・馬17,牛馬銀45匁余,新出来米銀270匁余,雉札銀1匁,渋柿2斗6升代米1斗5升余・夫役1ツ・夫米7俵斗余,馬足21匹を負担している(敦賀郷方覚書)。「敦賀志」には「此山の薯蕷最もよし」「又常に炭・薪を出す」とある。小浜藩京極氏時代から木ノ芽峠で福井藩領と境を接することとなり,当村に女留番所が置かれた。享保12年頃は草野忠右衛門が番所役人で,蔵米13俵が給されている。新保宿駅は葉原宿駅より少し遅れ戦国末期に設置された(東郷村誌)。宿駅は敦賀から2里半,疋田から4里,葉原からは半里に過ぎなかったが,当宿の設置は次の二ツ屋宿へ1里半の途中,新保から22町の地点に木ノ芽峠の難所を控えていたことによる。葉原・新保では古法によると上り荷は葉原宿継ぎ,下り荷物は新保宿継ぎであったが,これをめぐって承応元年・文化10年・文政5年に両宿の間で争論となっている(敦賀郡誌)。これらは寛文12年河村瑞賢の西廻り航路の開発などで物資の減少したことが起因している。問屋兼本陣であった塚谷家は,元治元年水戸浪士が新保村に立籠った時,武田伊賀守耕雲斎も同家を本陣とした。本陣は瓦葺で平入切妻の正門と本屋が残る。氏神は日吉神社,字堂ノ上に鎮座,祭神は大山咋命。真宗大谷派意力寺は慶長12年の創建と伝える。明治3年本保県,以降敦賀県,滋賀県を経て,同14年福井県に所属。明治7年当村に5等郵便役所が設置された。「滋賀県物産誌」によれば,戸数56(全戸農)・人数220,牛12(物資運送用),産物は炭2,000俵・桑750貫。また,農業の「傍ラ炭ヲ焼キ或ハ牛ヲ用イテ物品運送」に従事したとある。戸数の7割位は旅籠業を営み,木ノ芽峠の急坂を控えていたので比較的繁盛した。冬季になると峠には雪が降っているといって,客を引き留めるものもあったという(東郷村誌)。同22年東郷村の大字となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7332011 |




