松永荘(中世)

平安末期~戦国期に見える荘園名。平安末期~南北朝期には松永保と称することもある。若狭国遠敷【おにゆう】郡のうち。遠敷郡太良荘の開発期の領主である丹生二郎隆清が大治元年3月に領した田地が「松永保内恒枝名」にあるとされているのが初見(東寺百合文書ぬ/平遺2066)。次いで,文治4年9月3日に松永保・宮川保の地頭宮内大輔重頼(二条院讃岐の夫)が国司の命に背くのを止めるという源頼朝の下文が出されている(吾妻鏡)。荘園としては,建長4年12月1日の明通寺勝賢の譲状に「若狭国松永庄内明通寺院主職」とあるのが初見(明通寺文書/小浜市史社寺文書編)。この棡山明通寺は9世紀初頭に坂上田村麻呂が本尊薬師如来を安置したと伝える若狭真言宗の古刹である。この地が荘園化しても国衙側は荘園としては認めなかったようで,文永2年3月の中手西郷内検田地取帳案には松永保として耕地が記されている(京府東寺百合文書に)。ただし,松永保の田地の多くが属する東郷の同帳には保田が見えないことから,すでに荘園化している東郷部分については内検が行われなかったと考えられる(京府東寺百合文書ハ)。同年11月の若狭国惣田数帳案には松永保として東郷に42町20歩,西郷に5町6反50歩,三方郡三方郷に1反の田地があるとされている(京府東寺百合文書ユ)。この前後の文永2~4年に明通寺の僧大弐房頼印は地頭代となっており,脇袋範継と内縁であったことから太良荘内の東河内にあった松永領耕地を範継に耕作させていたが,不和となったため,この耕地を地頭とともに押置いたという(東寺百合文書ア・ル)。この地はのちのちまで太良荘の算用状に松永押領と記されている。地頭に関しては,応仁2年6月日の明通寺院主頼禅置文写によれば,貞応年間に明通寺に田地を寄進した惟宗能綱が松永保地頭として知られるが(明通寺文書),別に本地頭として明通寺僧兵衛房がいたとされ(東寺百合文書ル),両人は同一人かと考えられるが,未詳。前記惣田数帳案の元亨年間頃の朱注によって能綱のあと隆能が保の地頭であったことがわかるが,これは惣領家で,保(荘)の一部を分与されて正和5年と元徳3年明通寺に田地を寄進した惟宗能信や惟宗(多伊良)能泰は庶子であろう(明通寺文書)。なお,同朱注には「領家東寺」とあるが,東寺が当保を支配した史料はない。本所については,正安4年頃の室町院(後堀河天皇皇女暉子)所領目録の若狭国「新御領」のうちに「若狭国松永庄〈季景〉」とあり(集),皇室領となっていた。元弘3年5月上旬に足利尾張幸鶴は軍勢を率いて若狭の北条氏方を討ったが,松永保からも兵粮を徴発した(明通寺文書)。南北朝内乱のなかで地頭の惟宗(多伊良)氏は没落し,康安2年8月には大内和秀が地頭として見える(同前)。室町院領のうち持明院統に伝えられた荘園は室町期には伏見宮家領となるものがあったが,応永5年10月26日の後小松天皇綸旨(案)によれば「松永荘」も伏見宮家の祖栄仁親王の所領とされている(勧修寺氏文書)。伏見宮家は荘の支配を御恩として近臣にゆだねており,この支配にあたる者を奉行と称した。同25年12月7日に勝阿のあとを受けて祐誉が松永荘奉行に任じられ(看聞御記),祐誉は幕府の安堵を受け,同時に松永荘4分1を守護一色氏が請負いながら年貢を無沙汰している件や,半済を停止されたいとして幕府に訴えている(同前応永27年6月5日条,看聞日記紙背文書・別記/図書寮叢刊)。足利義持は半済を停止せよと一色氏に命じたが,一色氏がこれを無視したため,永享3年正月~6月にかけて松永荘奉行の定直は繰り返し幕府に働きかけ,半済を停止するという守護代三方範忠の遵行状を得ている(看聞御記永享3年正月8日条・同年5月28日条・同年6月3~5日条)。この直後に奉行職をめぐる争いが定直と山城伏見荘の地侍で伏見荘の政所でもあった小川浄喜との間で起こったが,両者ともに支配にあたることで和睦がなり(同前同年6月12日条),永享3年6月27日には両人が松永荘年貢を進納している。同12年8月の伏見宮貞成親王の所領目録では松永荘は100貫文余の年貢とあり,半済分を定直と浄喜が奉行し,年貢のうち5貫文が伏見宮貞成の親戚の田向経良に,10貫文が綾小路有俊に配分されることになっている(榎戸文書/証註椿葉記)。この時期に注目されることとして,永享5年9月3日に松永荘農民が旱損による年貢免除を要求して列参したことが挙げられる(看聞御記)。また,嘉吉元年4月26日に奉行浄喜が「松永庄新八幡宮」にあった「彦火々出見尊絵二巻・吉備大臣絵一巻・伴大納言絵一巻金岡筆」の計4巻を天皇に見参に入れるため京に上ったとあり(同前),現存の伴大納言絵巻の伝来についての貴重な史料として知られている。嘉吉3年3月19日には摂津多田院造営料段銭が松永荘・吉田・三宅に課されたので,伏見宮貞成は後花園天皇(貞成の子)を通じて幕府から免除の状を得たが(同前),その免除状が現地にもたらされる以前に,守護武田氏の譴責に耐えかねた荘民らが段銭を納入してしまったので,その納入分を取り返すということもあった(同前嘉吉3年3月22日条・同年4月7日条)。文安3年8月27日に松永荘をはじめとする伏見宮家領は貞成の子の貞常親王に譲与され(伏見宮家文書),その後も同宮家領として存続した。戦国期の永正元年9月27日には粟屋親栄が「伏見殿御料若州松永庄」の代官に任じられており,親栄の戦死する永正4年までその役にあったことがわかるが(実隆公記永正元年9月27日条・同4年8月8日条/纂集),この粟屋親栄は足しげく三条西実隆のもとへ出入りして「源氏物語」などを学んだ武田氏家臣である。かつての地頭職を継承する支配権は戦国期には幕府が有しており,天文10年8月7日には現地の武士である大野家保に年貢納入が命じられ(大館常興日記/続大成),同年12月16日に大野氏は10貫文を納入している(同前)。この頃から松永荘も遠敷郡宮川に拠って宮川殿と称された武田信方の支配下に置かれた(明通寺文書)。元亀3年の明通寺寄進札に「松永庄三分一」「松永庄四分一」「松永庄体興寺」とあり(小浜市史金石文編),戦国期の荘域はかつての松永保の西郷分を除いた地域,すなわち近代の松永村にほぼ一致すると考えられる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7334156 |