板垣郷(中世)

室町期~戦国期に見える郷名。山梨郡のうち。永昌院所有梵鐘の応永27年12月13日の第1次追銘に「大日本国甲斐州山梨郡板垣郷 宝蓋山東光興禅寺鐘」と見える(日本古鐘銘集成)。応永27年,この鐘が逸見荘から現甲府市の東光寺に移った時の追加銘である。また「塩山向嶽禅菴小年代記」天文11年8月20日条によると,天文11年7月に武田信玄が諏訪頼重を滅ぼし,頼重を捕えて甲府へ幽閉した後,「八月念日之夜,諏訪方殿於于板垣之東谷(光)寺自殺也」と見えており(甲斐戦国史料叢書1),板垣郷が東光寺も含めた広域地名であったことがわかる。板垣郷内には永禄元年9月に武田信玄が信濃の善光寺から阿弥陀三尊を甲府へ移送し,新善光寺を建立したことが知られる。府中への東玄関の位置にあたる。永禄12年6月11日の弓法免許状によれば,「板垣住熊谷遠江守次男玄番(蕃)助」の名が見えており(間藤文書/大日料10-3),元亀3年3月9日には,武田氏家臣の板垣信安が菅田天満宮に「板垣郷之内 五拾疋之所」を永代寄進している(甲州古文書6/大日料10-12)。板垣氏は鎌倉期以来の名族で,武田太郎信義の次男兼信が板垣郷へ入って板垣姓を名乗ったのにはじまるという。郷内に居館址も伝存しており(国志),また「一蓮寺過去帳」には「弥 丙寅(永正3年)二月廿九日 板垣備州」「願 壬戌(文亀2年)十二月十日 板垣」などと見える。天正8年6月15日の武田勝頼印判状写によれば,「於板垣山,毎日蒭壱駄」を刈り取って進上するよう命じており(内藤治幸家文書/甲州古文書1),郷北部の裏山を板垣山と通称していたことが知られる。天正10年3月の武田氏滅亡後には,徳川家康が入甲し,同年9月2日の徳川家印判状写によれば,「板垣内拾八貫文」を多田正吉に本領安堵している(記録御用所本古文書/甲州古文書3)。同じく徳川氏による慶長6年11月の検地によって,「万力筋板垣村縄打水帳」9冊を残している(県立図書館所蔵文書/同前)。なお「承久記」によると,承久の乱で捕えられ,小笠原長清に預けられた佐々木前中納言有雅は,長清の手で「甲斐国板垣庄の内古瀬村」で切られたとあり,古瀬村は現在の甲府市小瀬町のことと思われるが,同じ事項につき「吾妻鏡」では「於当国稲積庄小瀬村令誅畢」と見えている。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7335093 |