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加賀美中条(中世)


 戦国期に見える地名。巨摩【こま】郡のうち。加々美中条とも書く。天正10年の武田氏本宗の滅亡後,甲州に入った徳川家康は,武田旧臣の知行・寺社領を基本的に安堵した。同年11(12異)月6日の徳川家印判状写によれば,中沢主税祐(助)は「賀々美中条内三拾貫文」ほか計38貫文の知行を本給の得替と重恩として充行われている(記録御用所本古文書・譜牒余録後編/徳川家康文書の研究上)。また,同11年4月19日の徳川家康判物では,当地の法善寺に対して「加賀美中条内壱貫五百文」をはじめとして計102貫220文を安堵した(法善寺文書/甲州古文書2)。なお,天正5年2月30日の武田家印判状写には「西郡中条之内」とあり,同地の家1間半の棟別銭と郷次之普請役が松本二郎三郎に免許されているが,この中条は当地のことか。さらに,同20年2月14日の加藤光政身延山末寺屋敷免許状には「千六百七拾壱坪 定林坊 〈かゝミ中条〉長遠寺」とある(久遠寺文書/同前)。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7335499