黒駒(中世)

室町期から見える地名。八代【やつしろ】郡のうち。黒駒郷ともある。御坂峠越えの鎌倉街道の要地として古くから栄える。室町期の成立といわれる「日蓮聖人註画讃」に,病気治療のために常陸の湯に向かった日蓮の行程として「弘安五年壬午九月八日午刻,出身延沢宿下山,九日大井,十日曽禰,十一日黒駒,十二日河口,十三日呉地,十四日竹下」とあり,日蓮が弘安5年9月11日,この地を通ったことがわかる(続群9上)。「一蓮寺過去帳」に「弥 文安二,九月十四日 黒駒」と見える(甲斐叢書8)。下って戦国期には,享禄2年5月24日付称願寺宛武田信虎判物に「黒駒之称願寺中,不可有狼藉候」とあるのをはじめ,しばしば見える(称願寺文書/甲州古文書2)。天正9年3月20日付荻原豊前宛武田家印判状写により,黒駒に居住する新左衛門という者が岩殿城の番と普請を命ぜられていたことがわかる(荻原七郎兵衛所蔵文書/甲州古文書3)。同10年,武田氏滅亡後,甲斐の領有をめぐって徳川家康と北条氏直が争ったが,そのときの模様を伝える「北条記」の記述の中につぎのように黒駒が出てくる。すなわち,「已に甲州,家康公の分国となる処に,甲州のかり坂辺に一揆共,大村伊賀・同三右衛門を大将として悉く起り,小田原衆と引合,已に甲州をくつかへさんとす。依之,秩父新太郎殿,秩父口より勢遣ひあり,北条左衛門佐,八千余騎にて御坂越に打て入る。然れとも一揆共の用意相違して,大村を初として笛吹川の辺にて,皆穴山衆に討れしかは,小田原勢,案内を失ひ猶予しける処に,家康公,七千余騎にて新府に籏を立,先陣鳥居彦右衛門,当国の住人等を先に立て,黒駒へ馳向ふ」とあり,家康は7月には入甲して,国内の鎮撫につとめた。同年8月9日には家康は地内22貫文の地を小宮山囚獄助に安堵し(譜牒余録後編/甲州古文書3),同年11月7日には「黒駒山之口五疋三人」を本領のうちとして石原新左衛門尉正元に安堵し(記録御用所本古文書/甲州古文書1),翌11年3月28日には,埴原東市佑にやはり地内22貫文の地を認めている(譜牒余録後編/甲州古文書3)。この頃,寺社領も家康から安堵されたものが多く,同年4月19日には美和明神社に1貫500文の地が(美和明神社文書/甲州古文書2),神座山権現社にはやはり地内で7貫775文の地が(神座山権現社文書/同前),一蓮寺には1貫300文の地が(一蓮寺文書/甲州古文書1),それぞれ安堵されている。同4月20日にも観音寺に対し「黒駒・馬淵分九貫文」が安堵され(観音寺文書/甲州古文書2),同年9月27日にも称願寺に7貫500文が安堵されている(称願寺文書/同前)。この地の地名を苗字とする黒駒氏がおり,また,武田氏の時代には黒駒関という関所があり,関銭が徴収されていたが,その一部は富士山中宮造営のために寄進されたこともあった(富士浅間神社御師槙田家文書/甲州古文書3)。なお,玄旨法印(細川幽斎)の「東国陣道記」に,天正18年7月16日のこととして「十六日,甲斐の内河口といふ所にとまりて,暁ふかく御坂をこえて甲府につく。その道に黒駒と云所あり」と記されており(群書18),また,古い童謡に「甲斐の黒駒井の上そだち羽根はなけれど日に千里」とあるように(地名辞書),駒の産地だったことがうかがわれる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7335891 |