道志村(近世)

江戸期~明治22年の村名。都留【つる】郡のうち。郡内領に属す。はじめ谷村藩領,宝永元年からは幕府領(谷村・韮山・石和【いさわ】・市川の各代官所支配を経る)。村高は,「寛永村高帳」130石余,「享保郷帳」「天保郷帳」「旧高旧領」137石余。文化3年の村差出帳によれば,当村は12の集落に分けられ(これを村とも称す),それを6組に分けて各組に名主・組頭・百姓代を置き,村政の運営にあたった。集落名・組名は,東の相模国境から月夜野・大渡・野原・久保が久保組,小善地が小善地組,竹之本が竹之本組,川原畑が川原畑組,神地が神地組,善之木・白井平・板橋・長股が善之木組。以上が「国志」で記される「村名」だが,ほかに集落としては笹久根・大室指が久保組,小椿・椿が小善地組,大栗・馬場・戸渡・岩瀬・大久保・数雲塚・池之原が竹之本組,谷宗が川原畑組,川村が善之木組に属す。文化初年の戸数342・人口1,735(男868・女867),馬280(国志)。反別は田畑37町余・屋敷1町余・山畑9町余・桑118束半(文化3年村差出帳)。年貢のほかに小物成として薪・入松を納入し,また笹板役として永7貫220文,山役として永5貫文を金納した(享保郷帳)。笹板役は谷村藩領時代には藩より扶持米・塩を給与されて富士山で笹板609把を物納したもので,幕府領となった際に金納となった。山役は地内の山での雑木・笹板・大鋸板・杓子・炭・下駄・白若の7品の山稼ぎ代として金納した。これらの品は,相模国大山の久保沢や武蔵国八王子,江戸浅草の各市に出荷して販売したもの。ほかに道志川の鮎運上や木挽役・猟師役・大工役・棒手役などがあった。稼ぎは男は7品の山稼ぎ,女は農間に養蚕や糸ひき(文化3年村差出帳)。相模国との境に位置するため,月夜野には口留番所跡と伝えられる所がある。また相模国への通行には津久井荒川村の番所で荷改めが行われた。高札は各組に置かれて6か所あった。当村域には広大な山林があるが,久保組だけは秋山村にも入会山をもっていた。用水は沢水を利用。寺院は川原畑に吉祥山永見寺,久保に上田山円福寺,戸渡に久昌庵があり,いずれも曹洞宗。ほかに辻堂が14か所にあり,久保に阿弥陀堂・薬師堂,神地に十王堂・薬師堂,川原畑に薬師堂,大久保に観音堂,戸渡に阿弥陀堂,竹之下に十三仏堂,馬場に観音堂(現在はなし),大栗に薬師堂,大椿に十王堂(現在はなし),小椿に薬師堂(不詳),野原に観音堂,月夜野に薬師堂。神社は16か所で,川村に熊野権現,神地に子権現,川原畑に熊野権現,矢宗(谷宗)に第六天,竹之本に大室権現・若宮宮,大栗に諏訪大明神,岩瀬に第六天,小善地に第六天,大椿に金山権現,小椿に羽黒権現,久保に大室権現,野原に五郎宮・熊野権現,大渡に大室権現,月夜野に大室権現(文化3年村差出帳)。明治4年山梨県に所属。同7年の戸数349・人口1,743。同8年郵便所が置かれる。同11年南都留郡に属す。村の広さは東西6里・南北2里,地租改正後の反別は田36町余・畑138町余・切替畑78町余など計309町余(市郡村誌)。同20年道志尋常小学校・善ノ木尋常小学校を設置。同22年市制町村制施行により単独で自治体を形成。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7336648 |