伊那郡

天正18年徳川家康の関東移封に従い,家康の郡代菅沼定利をはじめ,中世以来の高遠城保科氏・松尾城小笠原氏ら諸領主は関東へ移った。代わって豊臣大名毛利秀頼が郡一円に入封し,翌19年太閤検地を施行,文禄2年女婿京極高知が襲封して10万石を領有した。慶長5年11月保科正光は関ケ原の戦での戦功によって高遠城へ2万5,200石で帰封し,翌6年小笠原秀政が飯田城へ5万石で入った。旗本では,阿島の知久氏3,000石,山吹の座光寺氏1,400石,伊豆木の小笠原氏1,000石のほか,遠山谷に遠山氏1,080石,現阿智村に200~300石ずつの宮崎3氏・市岡氏が配置された。また山間美林地を中心に1万石余の家康蔵入地が置かれた。これらのうち,知久・座光寺・小笠原の交代寄合旗本3氏は定着して明治維新に及ぶが,ほかの大名・旗本は以後転変する。まず高遠藩では,保科正光が将軍秀忠の庶子正之を養子とし元和4年筑摩郡南西部に5,000石を加封されて3万石となり,寛永8年正之が継ぐが,同13年正之は出羽最上,次いで会津へ移る。入れ代わりに最上から鳥居忠春が保科氏と同じ伊那郡2万5,200石・75か村,筑摩郡5,000石で入封,忠則・忠英と襲封するが,元禄3年能登へ去り,高遠領は一時幕府領となった。同年幕府に命じられて松代藩が高遠領総検地を施行,9,000石余の増石を生み出した。元禄4年内藤清枚が伊那郡2万8,500石・79か村,筑摩郡4,500石の3万3,000石で入封,内藤氏は維新まで存続する。検地増石の残余6,300石余は幕府領に編入された。飯田藩は,小笠原秀政が慶長18年松本へ移封され,跡地は4年間幕府領となったが,元和3年脇坂安元が小笠原氏と同じ5万石・98か村で入封した(ほかに上総に5,000石)。2代安政が寛文12年に去り,同年堀親昌が2万石・27か村に縮小した飯田藩主となり,以後堀氏が定着する。旗本領では,元和4年遠山氏が絶家。同5年高井郡から井上氏5,000石・近藤氏5,000石および村上氏が入封し,うち近藤氏は立石および山本の陣屋で支配し維新まで続くが,村上氏は元和9年転封,井上氏は明暦3年絶家した。また宮崎3氏・市岡氏らは17世紀後半から18世紀初めに次々に転封や改易で姿を消した。次いで天和元年尾張支藩松平氏領が当郡1万5,000石・46か村と高井郡に置かれ,竹佐陣屋で支配,元禄13年高井郡分が美濃国に替地されて高須藩となり維新まで存続する。また天和2年坂木藩板倉氏領1万7,800石が置かれ,翌年坂木藩領と上総国高滝藩領に分かれ,前者は元禄15年,後者は元禄12年解消した。この結果,江戸中期以降には,上伊那の高遠藩,下伊那の飯田藩・美濃高須藩および知久・座光寺・小笠原の3旗本知行所で安定した。このほか当郡に広い幕府領が形成されるが,その幕府領を割いて旗本太田氏知行所5,000石が元禄12年以降断続的に置かれて木下陣屋で支配し,また幕末の弘化3年陸奥白河藩の飛地領1万3,874石余・47か村が設置され,市田原町陣屋で支配した。幕府領は,そのうち4,489石余・11か村が幕臣から尾張藩臣に転じた千村氏預地に属し,ほかは各地の陣屋の代官が支配したが,後期には飯島陣屋代官の支配に属することが多く,また松本藩預地に属した。郡域は,慶長6年松本藩領筑摩郡・高島藩領諏訪郡と境界争論が生じ,当郡北部の小野が筑摩郡・伊那郡に分けられ,以後確定した。郡の石高と村数は,「天正高帳」で10万612石余・248か村,「正保書上」で10万253石余・268か村,「元禄郷帳」で12万2,687石余・298か村,「天保郷帳」で13万4,043石余・284か村。「旧高旧領」では13万7,745石余・1町294か村で,その石高の所領別内訳は,高遠藩領2万9,988石余・飯田藩領2万2,448石余・高須藩領1万5,119石余・陸奥白河藩領1万4,039石余,旧幕府領は千村氏預地6,287石余・飯島代官支配所1万5,354石余・松本藩預地1万7,701石余,それに伊那県支配所218石余が別記されている。特異な貢租制度として,幕府領のうち赤石・伊那・木曽各山脈沿いの山村が,米納に代えて椹の榑木(屋根板用材)を上納する榑木成村とされた。江戸中期以降は森林資源の枯渇から石代納に変わった。交通運輸では,松本と三河・尾張・遠江を結ぶ伊那(三州)街道が郡下を縦貫している。その伊那街道は中馬発祥の地であった。中馬は荷物を付け通しで輸送し,宿継ぎ輸送に比べより速く安く荷傷みが少ないため,急速に発達して作間稼ぎから専業化が進み,伊那街道宿駅と再三争論の結果,明和元年の幕府裁許で公認された。中馬は商品流通の動脈として発展し,これに支えられて紙漉業・養蚕業などが盛行,飯田町は物資の中継基地として繁栄した。江戸初期には郡内各地に御館・被官制が存在した。中世の名主層だけが本百姓化して御館(御家)と呼ばれ,村の大多数の作人層は被官とされて自立百姓になりえず,御館に身分的に従属し賦役を提供して小作するという特異な小作制度である。多くの村では江戸前期に被官が自立した。天竜川東部山間地村々には後期になお遺存したが,貨幣経済の浸透につれ被官が自立度を高めた。百姓一揆では,宝暦12年の飯田藩千人講騒動,文化6年の飯田領内外の紙問屋騒動,文政5年の高遠藩木綿・わらじ騒動(興津騒動),安政6年の白河藩領南山騒動などが代表的なものであった。南山一揆は計画性・組織性と完全な勝利で知られている。慶応3年にはええじゃないかが広がった。また幕末には平田派国学運動が村役人層に拡がり,国学四大人を祀る本学霊社を建て,元治元年の水戸浪士隊通過や慶応3~4年の動乱で活躍した。明治元年白河藩領は朝敵として没収,幕府領は尾州取締所が管轄し8月伊那県に所属,同2年の版籍奉還後旗本領も伊那県に所属した。同3年12月高須藩は名古屋藩に併合。同4年の廃藩置県で7月に飯田県・高遠【たかとお】県が成立し,8月旧高須藩領は伊那県に所属。次いで同年11月20日すべて筑摩県に統合された。同9年8月筑摩県と東北信の長野県が現在の長野県に統合。同12年伊那郡は上伊那郡・下伊那郡に分けられた。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7337973 |