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大島(中世)


 鎌倉期から見える地名。伊那郡のうち。嘉暦4年の諏訪大宮造営目録に「伊那郡 玉垣五間 大島〈上穂・横厩〉」とあり,造宮役を負担していた(信史5)。大島氏の始祖大島宗綱は「吾妻鏡」建久6年3月10日条の東大寺供養参列のため源頼朝に供奉した武士の中に「大島八郎」と見える。その後,大島氏は応永7年10月の大塔合戦に小笠原長秀に従い(信州大塔軍記/信史7),永享12年の結城合戦にも従軍した(笠系大成附録結城陣番帳/同前8)。戦国初期成立の諏訪御符礼之古書によれば,長禄4年花会条に「一,宮頭,大島刑部少輔政綱,御符之礼三貫三百文,頭役拾五貫」,寛正6年五月会条に「一,流鏑馬,大島,名子ヲ寄子ニシテ此年一頭ニ勤可申之由申之間,名子之御符礼与大島御符之礼合三貫六百請取,使〈孫六〉,頭役名子ハ三貫,大島五貫文,御符之礼三貫六百六十文,神鷹・神馬」とあるのを初めとして,応仁3年御射山条・文明7年五月会明年御頭足条・同10年明年御射山御頭条・同19年花会明年御頭足条では「大島・名子」両所の御符礼・頭役を大島政綱ついで光綱が勤仕した(信叢2)。永禄3年と推定される12月12日の片切兵庫頭・飯島大和守に宛てた赤須昌為上穂貞親契状案に「大島御在城被移」との注記がある(福沢文書/信史12)。同5年と推定される10月29日の武田信玄書状では,遠山三郎兵衛入道に「去秋大島越候砌,可遂面談之由存候処,不例故無其儀候,無念候」と伝えている(塩原文書/同前補遺上)。同10年3月11日武田信玄は諏訪社上社に命じて,同社神使伊那廻神事を再興しているが,その中に「一,大島之分,六百銭〈此内百銭年来無沙汰之所,去年有御改,可為如前々之由被仰出候,惣百姓之役,神主 源右衛門〉」と見える(矢島文書/同前13)。同年8月7日大島長利は武田信玄に異心のないことを誓う起請文を出した(生島足島文書/同前13)。元亀2年3月17日の武田信玄朱印状には「以右御中之人足,大島之普請可相勉」とあり,秋山信友に下伊那19か郷・2衆の人足をもって大島城の普請を命じた(工藤文書/同前13)。天正10年2月16日,織田信長の攻撃によって大島城は落城し(信長公記/同前15),信忠は当地から飯島に進軍した(関戸文書天正10年3月3日織田信長書状/同前15)。そして3月17日,信長が飯田から当地を経て飯島に至った(信長公記/同前15)。この時信長は「大島町」に禁制を掲げた(宮下文書/同前15)。下って,文禄2年11月19日京極高知は「大島」に条規を定めた(同前/同前17)。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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