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志久見郷(中世)


 鎌倉期~戦国期に見える郷名。高井郡のうち。樒・敷味・宿見とも書く。また郷名のほか山名・関所名でも見える。中世を通じて市河氏の所領で,「市河文書」中に頻出する。初見は寿永3年3月6日の某(源頼朝の弟阿野全成か)下文で藤原助広が「志久見山地主職」に補任されており,次いで建久3年12月10日の将軍家政所下文で同じく助広が「樒山」の地頭職に補任されている。助広の子中野能成は源頼家の近習として比企能員の乱に連座し,「吾妻鏡」によればその身を拘禁されたというが,建仁3年9月4日北条時政の計らいで罪を軽減され,同月23日幕府下知状で「信濃国春近領志久見郷地頭職」を安堵された。嘉禄元年には郷内への守護不入も認められている。この間,貞応3年11月11日にも能成の「春近領内樒郷地頭職」が安堵されているが,同年と推定される11月13日の北条泰時副状には「この所はするかの守給て候し間……かへしたひ候へきよし,告まいらせて候あひた」とあり,一時,信濃守護北条駿河守重時の所領となっていたらしい。能成の地頭職はその後,建長元年子息忠能に譲られ,同4年には幕府の安堵を得た。ただし,舎兄西願入道並びに女子分と,正康に安堵された郷内宗大夫田在家は除かれている。忠能には男子がなく中野仲能らを養子としており,その所領は唯一の実子女子袈裟に譲られたらしい。文永2年には袈裟の当郷地頭職が幕府から安堵されている。ここまで当地は藤原姓中野氏の所領であったが,この袈裟の段階で地頭職が市河氏へ移ることになった。袈裟は市河重房の後妻として嫁いだが,子がなく先妻の子盛房を養子とし,「志久見郷下条平林」は文永9年袈裟(尼寂阿)から盛房に譲られ,同11年2月20日幕府の安堵を得たからである。以後,志久見郷や中野郷内西条内の土地をめぐって,市河氏と中野氏が相論を繰り返すことになる。同11年6月15日の市河盛房宛将軍家御教書およびその前に出されたと推定される中野仲能訴状案によれば,盛房と仲能の間で当郷の境界をめぐる争いがあり,仲能は境界について「南は岩垂沢を登りに,太郎大夫畠のひしりを湯衡峰の限り北は小箕作河に切り付く」と主張,対して盛房は当郷南限は「高倉峰」であると主張している。鎌倉幕府は弘安元年・正応3年・正安4年の3度,「志久見郷湯山」をめぐる市河氏と中野氏・小田切氏の相論を裁決している。この間,正安2年「奥春近領志久見郷」は地頭請所とされている。その後,元亨元年市河盛房は助房に「志久見郷惣領職」を,大井田女子に「志久見郷内雪坪の在家」を譲っており,以下,嘉暦4年には盛房後家尼せんかうが子助房に当郷惣領職および当郷内賀志加沢村を譲り,康永2年助房が当郷惣領職を子松王丸(頼房)に,当郷内平林村を経高に譲っている。至徳2年信濃守護斯波義種は市河頼房に「高井郡中野西条・志久見山・上条御牧」などの地頭職を安堵,応永7年守護小笠原長秀が,同8年守護斯波義将が,同9年幕府の信濃代官細川慈忠がそれぞれ「宿見山」などの地を頼房に安堵している。この間南北朝動乱の過程で市河氏は主として北朝方に属し,建武4年新田義貞のたてこもる越前金ケ崎城の攻撃軍に加わり,また,信越国境の志久見郷内の関所を守った。隣接の越後妻有荘の南朝方新田一族と対立,暦応3・4年,信越国境の戦いで新田氏を破っている。一時期,市河経高らは南朝方に移った越後の上杉憲将と行動を共にし,北朝方の高梨氏と対立,正平11年,小菅用(要)害と志久見郷内平林で合戦をした。形勢不利となった市河氏は北朝方に復帰し,延文5年市河経助は守護小笠原氏より「志久見郷関所」の地を兵粮料所として預けられた(以上,市河文書/信叢3)。室町期以降,市河氏は幕府守護体制に忠勤を励み,恩賞によって所領を拡大し,領主的発展を遂げていった(高井28)。戦国期には,市河氏は武田方に与し,のちに上杉景勝配下となったが,慶長3年の景勝の会津移封に従って信濃を去った。なお,諏訪社関係の史料はいずれも山名で見え,鎌倉末期の嘉暦4年の諏訪大宮造営目録(信史5)に「外垣五間 敷見山」とあるのをはじめ,戦国初期成立という諏訪御符礼之古書の宝徳4年条に「一,敷味山,花会,御符之礼二貫三百文,布二,市川甲斐守保及,頭役二拾貫文」,長禄2年条に「礒並,敷味山,市川前甲斐守保房」,文明2年条に「流鏑馬,敷味山,市川前越中守朝保」とあり,以下文明8年・同14年・長享2年の各条にも見える(信叢2)。また天正6年の上諏訪大宮造宮清書帳に「一,外垣五間 同(奥)敷味山」と見え(同前),翌7年の諏訪社上社の頭役料は3貫300文であった(御頭書)。当郷の範囲は時代によって変化があるが,鎌倉期から南北朝期には郷内として,湯山・石橋・細越・壼山・平林(以上,野沢温泉村)・雪坪・箕作・賀志加沢・あき山・小赤沢(以上,栄村)などが見え,現在の栄村堺と野沢温泉村の大半を含んだものと推定される。天正7年の御頭書では平林などが敷見山と同列に見えるので,戦国末期には各地域が独立し,江戸期の志久見村を中心とした範囲に限定されてきたのであろう。現在,志久見地区に殿やしきの館地名が残り,また,市河氏らの居館とされる内池館跡もある。その他,箕作・平林・野沢にも館と付属の山城が見られる。また,応永7年の市河興仙軍忠状(市河文書/信史7)に見える「烏帽子形城」は,大次郎山の西にあったと推定される(信濃Ⅰ-4-10)。なお,市河氏の後高裔に伝えられた「市河文書」(山形県酒田市本間美術館所蔵)は中世史研究の好史料であり,国重文となっている。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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