筑摩郡

江戸期の筑摩郡は,古来の郡域のほか,木曽を含む。まず狭義の筑摩郡の支配の変遷をみると,中世末に筑摩・安曇両郡を支配した小笠原貞慶は,天正18年豊臣秀吉の命で徳川家康に従って関東に移封した。代わって石川数正が両郡一円に入封,それまでの貫高を一定の石高で換算した天正の石直し検地を行うとともに,2代康長にかけて松本城を築造,城下町を形成し,中山道と結んで当郡を通る北国西街道(善光寺道)など領内交通路を整備した。慶長18年石川氏は大久保長安断罪に連座して改易,貞慶の子小笠原秀政が飯田から入封して両郡一円8万石・255か村を領有した。以後松本藩は譜代藩となる。秀政は旧来の在地領主の力を削ぎ,4万石の蔵入地を握って家臣団統制を強め,農民支配では慶長19年の検地で人別定物成帳を作り年貢・諸役の賦課規準を明確にした。大坂夏の陣で秀政と長男忠脩が戦死し次男忠真が継いだが,元和3年転封,戸田(松平)康長が入封する。藩領はこの時7万石に減少し,当郡の所領は3万5,697石余・142か村となった。郡南部に高島藩諏訪氏領5,000石(東五千石),高遠藩保科氏領5,000石(西五千石)が設けられた。なお,元和元年から郡東部の保福寺鉛山に幕府の金山領500石が設置されている。戸田氏は領内行政区画を従来の不規則な筋から組に編成し,当郡は松本町周辺の庄内組をはじめ,麻績【おみ】・会田・山家【やまべ】・岡田・塩尻・出川【いでがわ】・島立【しまだち】の8組に分けられ,有力農民を登用して組手代(大庄屋)に任命した。また家臣知行では地方知行をやめ,蔵米知行(俸禄)制とした。これらは以後の歴代藩主に踏襲される。戸田氏のあと,寛永10年松平直政,同15年堀田正盛,同19年水野忠清と交代した。ともに7万石。水野氏は6代83年在封し,この間に藩法・藩機構・家臣役職格式を整え,城下町を拡充した。郷村支配では,郡奉行・組代官・納手代・組手代などによる支配体制を確立,慶安2~5年の総検地と家帳改めによって,貢租と屋丁役の負担者を本百姓として把握した。享保9年藩治のために編纂した「信府統記」を完成したが,翌10年水野忠恒の江戸城中刃傷により改易された。一時幕府領になるが,同11年戸田氏が再び入封,以後明治維新に及ぶ。戸田氏の所領は6万石に減り,1万石分は幕府領となる。戸田氏は儒教に基づく文治政策をとり,寛政5年藩学崇敬館を開き,藩財政の窮迫から寛政・天保の改革を実施。維新期には排仏毀釈を行い,領内270余の寺院を廃寺とした。松本藩以外では,万治2年松本藩水野氏の分知によって笹部領が成立したが,享保10年の宗藩改易の際,安房へ転出する。また,明暦3年高島藩領5,000石の分知により,各1,000石の旗本諏訪氏の百瀬・埴原両知行所が成立し,当郡の高島藩領は3,000石となり,それぞれ維新に至る。高遠藩領5,000石は,保科氏・鳥居氏のあと一時幕府領となり,幕府の命により松代藩が総検地を行って増石を打ち出した。元禄4年内藤氏が3万3,000石で高遠に入封し,残余は幕府領に編入された。松本藩領の縮小と検地増石で当郡の幕府領は3万1,900石余に拡大した。これが寛保3年松本藩預り所となり,その後塩尻代官所が支配したこともあるが,松本藩に預けられることが多かった。他方,木曽は,その大半が古代には美濃国に属したが,次第に信濃国扱いされ,戦国末期には信濃国木曽郡と称された。近世には信濃国として「正保国絵図」「正保書上」にも登載されたが,筑摩郡と別に「木曽」として立てられた。「元禄国絵図」「元禄郷帳」では筑摩郡に含まれており,江戸中期以降筑摩郡として扱われることが多くなった。豊臣秀吉は木曽が山林資源に富み,中山道の要衝であることから,天正18年これを蔵入地とした。慶長5年の関ケ原の戦後徳川家康も自身の蔵入地に編入し,木曽氏の旧臣山村氏を代官として福島役所で支配させた。家康は木曽支配に際して,年々山村氏に白木(檜の素材)5,000駄・木曽谷中住民に白木6,000駄の伐採を免許した。大坂の陣後の元和元年家康は木曽を尾張藩徳川義直に譲与し,以後一貫して尾張藩領となった。山村氏は幕臣・尾張藩臣両属の形となり,交代寄合旗本の処遇を保持し,引き続いて維新まで木曽代官の地位にあった。ただ,尾張藩の林政改革で寛文5年山林の管理,伐材の採出,木曽川の運材などの林政は藩直轄の上松材木役所に移管され,山村氏の権限は郷村支配と福島関所関守に限られることとなった。木曽の豊富な山林からは,江戸初期に江戸・駿府・名古屋城をはじめ,城郭・城下町や大寺院などの造営に,膨大な木材が伐り出された。村々の貢租制度でも,年貢米を林産村に下付し,実際には木年貢といって檜の榑木・土居(主として屋根用材)を取り立てた。林産優先制度のためもあって,木曽は無高の地である。文禄年間に検地がなされたが村高はなく,年貢定納米高1,682石余だけが定まっていた。ところで,当初無尽蔵とみられた森林資源も,乱伐につぐ乱伐で枯渇し,尾張藩は寛文・享保の2度の林政改革によって厳しい山林管理と伐採制限策をとる。全山林を巣山・留山・明山に区別し,巣山・留山は住民の立ち入り厳禁の禁伐林とした。明山は利用できたが,檜・椹・明檜・高野槙・ねずこの5木は停止木として伐採を厳禁,これが入会林から屋敷林にまで適用された。享保改革では山村氏・住民に免許されていた白木も,代米・代金渡しに切りかえられ,わずかに檜物細工用に奈良井・藪原・八沢にだけ1,899駄が許された。また木年貢制は廃止され,米年貢となった。なお享保9年に総検地が行われたが,木曽は依然として無高の地で,定納米高が2,262石余に増高された。筑摩郡と木曽の石高と村数をみると,文禄年間頃の「両郡郷村御朱印御高附」では筑摩郡分4万8,301石余・144か村,寛永19年の「松本御領分村々高附帳」で筑摩郡5万石余・148か村,「正保書上」で筑摩郡4万7,982石余(ほかに新田・見出し共として松本藩分1万5,759石余・高島藩分1,970石余)・144か村,木曽は定納米1,682石余・29か村。「元禄郷帳」では,「正保書上」で筑摩郡とされていた上平瀬・下平瀬・犬飼・小宮・大野川・稲核・中の諸村が安曇郡に訂正され,木曽を含む筑摩郡5万4,080石余・231か村(うち木曽は29か村で無高),「天保郷帳」で木曽を含み筑摩郡8万2,080石余・233か村(うち木曽は29か村で無高),「旧高旧領」では筑摩郡と同郡木曽とを別記してあり,筑摩郡は8万4,352石余・204か村で,その所領別内訳は松本藩領3万4,353石余・高遠藩領4,789石余・高島藩領4,383石余,旧幕府領のうち松本藩預り所3万7,025石余・伊那県支配所3,203石余,木曽は32か村,石高の代わりに反別記載で2,954町余。産業では,江戸前期からの筑摩郡の生坂煙草が,後期にますます栽培地域を拡大するとともに,葉煙草のままの出荷から加工した刻み煙草の出荷へと付加価値を高め,江戸をはじめ諸国に販路を拡げた。このほか藍・棉花・綿布,養蚕などの商業的農業と加工業が展開した。松本町は初期から信濃最大の城下町であったが,日本海や太平洋と結ぶ中牛馬輸送の一大中継基地として,種々の荷問屋をはじめ多種多様な商工業の発展によって繁栄,武士を含め人口1万5,000人に達した。木曽では林業て杣・日用稼ぎが多く,林産加工業の木櫛・檜笠・曲物・漆器などのほか,薬草・蕎麦・岩茸・木曽馬などを産した。中山道11宿の輸送稼ぎも収益源となった。しかし,米穀は移入に依存したので,凶作年の明和6年・慶応2年には米穀窮迫から木曽騒動が起こった。また明治2年8月には,贋二分金流入から生じた通貨不通用と凶作によって会田・麻績騒動が発生している。明治維新後,幕府領は明治元年8月伊那県に所属,旗本諏訪氏の百瀬・埴原両知行所も翌2年伊那県に統合,同県塩尻局の支配下に入った。藩領分は同2年6月の版籍奉還を経,同4年7月廃藩置県。伊那・松本・高島・高遠【たかとお】各県と木曽の名古屋県が併立したが,同年11月すべてが筑摩県に統合された。筑摩県は明治9年8月東北信の長野県と統合し,今日の長野県となる。同12年1月郡区町村編制法により長野県下に16郡が設置された際,筑摩郡は東西に分けられ,東筑摩郡・西筑摩郡が成立した。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7340327 |