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戸狩村(中世)


 南北朝期~室町期に見える村名。水内【みのち】郡常岩牧のうち。戦国期には郷名でも見える。明徳3年3月日の高梨朝高言上状案に「常岩北条戸狩村之事」とあり,木島朝末の知行地であった(高梨文書/同前7)。次いで応永8年6月25日市河興仙は信濃守護斯波義将より「北戸狩村内堂原在家壱宇」を安堵され,同9年9月17日には細川慈忠により同地を安堵されている(市河文書/同前)。下って永禄11年7・8月の武田・上杉両氏の飯山城攻防戦の後,11月17日信玄は市川信房に高井郡縄取下を宛行い,同地に支障があれば水内郡亀倉(上倉)近辺と「登加り郷」を替地として用意していると伝えている(色部家市川家古案集/同前補遺上)。天正6年の下諏訪秋宮造宮帳の秋宮二之御柱造宮領之次第に「合六貫(文カ)〈北戸狩・同こくまい・□(南)戸狩・同黒井〉取手大祝」と見え(信叢2),この4か村を統合したものが戸狩村と推定される(村史ときわ)。同年の下諏訪春秋両宮造宮帳にも4か村が見え(信叢2),そのうち黒井は現在の飯山市照里の小字黒井に比定される。天正8年12月13日武田勝頼は大滝土佐守に対し信濃知行地などを返却させ,「戸狩郷内六百七俵之所」を替地として宛行った(歴代古案3/信史14)。なお同10年8月8日の上杉景勝宛行状案には戸狩采女の名が見え,景勝より新領が安堵されている(上杉年譜/同前15)。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7340407