大垣(中世)

南北朝期から見える地名。美濃国安八【あんぱち】郡大井荘のうち。暦応3年の大井荘華厳会料名寄帳に「大柿殿」とあるのが初見(東大寺図書館所蔵文書)。文安3年9月15日の室町幕府奉行人飯尾為種・飯尾貞元連署奉書には「大井庄下司名代官大垣中務丞氏信」とある(大橋文書)。当時「大柿」と「大垣」が併用されていたことは,天正11年6月5日付の桜井佐吉家一宛の羽柴秀吉判物に「大柿」とあり(爪生氏所蔵文書),同日付の片桐助作直盛宛の羽柴秀吉判物には「大垣」と見えることによっても知られている(内閣文庫所蔵文書)。当初大垣と称された地は,現行の大垣市本町・中町・魚屋町あたりの狭い範囲であったと推定される(大垣市史)。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7343059 |