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精進川(中世)


 戦国期に見える地名。駿河【するが】国富士郡のうち。精進河・精進川郷とも見える。天文20年9月23日の今川義元判物に初見。「精進河内六貫文地,門前居屋敷等」が宝幢院僧都増円に安堵されている(宝幢院文書/県史料2)。この6貫文の地は以後,富士大宮別当領として弘治3年には再び義元によって安堵され(同前),さらに永禄3年には子息氏真によっても安堵されている(同前)。永禄5年4月11日の今川氏真判物によれば,佐野弥八郎が当地内で抱える名田が検地され,3貫文の増分が打ち出され,もとの1貫文と増分の半分の1貫500文を併せた2貫500文が安堵され,新在家10間の棟別諸役も20か年間免除された(渡井文書/県史料2)。永禄11年の暮れには今川氏真は武田信玄に駿府を追われ没落するが,その機に小田原北条氏は今川氏援助を口実に駿東郡から富士郡へ入り,富士郡では氏真方の富士信通と協力して大宮城で武田方と戦うが,状況は不利で富士郡の土豪の多くは武田方に付いた。そのような中で,富士信忠を繋ぎとめるため永禄12年12月17日,判物をもって富士郡内14か所の地を与えることを約したが,その中に当地の名も見える(旧大宮司富士家文書/県史料2)。武田氏時代の元亀3年5月5日には,武田信玄は朱印状をもって渡井惣兵衛尉に「精進川之内増分 拾七貫弐百(文カ)〈富士能登分〉」が充行われている(市川文書/県史料2)。また天正2年11月晦日の武田家朱印状では,当地居住の清七・次郎左衛門・弥三郎・善兵衛などの百姓の普請役が武田氏から免除されている(旧狩宿村之民弥左衛門文書/県史料2)。なお,天正18年12月28日の富士別当法幢院あての豊臣秀吉の朱印状によれば,精進川郷において18石を別当供僧領として与えられているが,これは今川義元以来別当領として安堵されてきた6貫文地に相当するものであろう(宝幢院文書/県史料2)。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7350618