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駿河国


「旧事本紀」巻10の「国造本紀」に珠流河国とみえる。いまの静岡県は4世紀ごろには,遠淡海・久努【くど】・素賀【すか】・廬原【いおはら】・珠流河・伊豆に分かれており,成務天皇のときに堅石命が珠流河国造に任じられたのにはじまるという。富士川と狩野川に挾まれた地域で当時は国造に支配されていた。愛鷹【あしたか】山麓の古墳群に結びつけて国造の勢力を考えることも可能である。大化改新後,諸国再編にしたがって廬原国・珠流河国・伊豆国の3国が合体して駿河【するが】国となった。設置時期は未詳。安閑天皇2年駿河国に稚贄屯倉【わかにえみやけ】が設置され(日本書紀),皇極天皇3年駿河国富士河辺に住む大生部多【おおふべのおお】が虫を常世神として祀り,村里の人を惑わしていたので葛野秦造河勝がこれを懲したという(同前)。これらの事実は,大化改新以前の大和朝廷と駿河国の関係を示し,完全にその勢力下に入っていたことを意味する。大化2年に発せられた大化改新の詔により国郡制が実施され珠流河国・廬原国・伊豆国が一国に整理され駿河国が建置された。国府ははじめ旧珠流河国駿河郷(現沼津市)にあったと推定される。当初の駿河国は志太【しだ】・益頭【ましず】・有度【うど】・安倍・廬原・富士・駿河・田方・賀茂の9郡から成っていたと考えられ,東海道に属し,上国に位置していた。天武天皇9年このうち田方・賀茂の2郡を分置して伊豆国が建国され,これ以後駿河国の領域は固定。伊豆国分置にともない駿河国は上国から中国にされた。国府も安倍の地に移され,現在の静岡市長谷町付近と推定されている。養老3年按察使が設置され,駿河国は伊豆・甲斐両国とともに遠江国守大伴宿禰山守の管下に置かれた。天平9年・10年の「駿河国正税帳」によれば,当時の耕地面積9,676町余,田租1万4,514石余,人口約6万7,500人と推定されている。また天平10年から神護景雲2年の間に再び中国から上国にもどっている。「延喜式」では駿河国に志太・益頭・有度・安倍・廬原・富士・駿河の7郡が確認され,「和名抄」にも7郡59郷が記されている。天暦8年から9年にかけて,駿河国益頭郡では郡司の伴成正や判官代の永原忠藤らが相次いで殺され,さらにその翌年には介橘朝臣忠幹も殺されるという事件が起こった。このような治安の悪化に対し,天暦10年6月駿河国司は政府に,駿河国司・郡司以下雑任にいたるまで帯剣し武装することの許可を求める解文を上申し,同年10月21日政府はこれを認めている。駿河国においても平安後期には政府の支配体制が動揺し,武士の台頭によって中世へ向かって歴史が展開する。岡部・入江・息津(興津)・蒲原などの駿河国の有力武士団は京都から下向した在庁官人が土着したものである。平安後期から鎌倉期にかけて数多くの荘園・御厨が史料上に登場する。志太郡の葉梨荘・稲葉荘・大津御厨,益頭郡の益頭荘・岡部御厨・方上御厨・小楊津御厨,有度郡の長田荘・入江荘,安倍郡の北安東荘・安東荘・服織荘・浅服荘・藁科荘,富士郡の須津荘・泉荘・賀島荘,駿河郡の大岡荘・小泉荘・金持荘・鮎沢御厨などがそれで,駿河国の有力武士たちはその所領を中央の権門勢家に寄進することによって着々と地位を固めた。また「延喜式」には岡部馬牧と蘇弥奈馬牧が記載され,これらの牧ははじめ官牧であったが中央政府の支配の衰退にともない私牧化し,これらの牧の周辺からも有力な武士が発生していった。「保元物語」に登場し,保元の乱において活躍していた駿河国内の武士には入江右馬允・高階十郎・興津四郎・神原五郎などが知られる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7350802