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浜名郡


天平12年の浜名郡輸租帳に初見(正倉院文書/大日古2)。当時の当郡の総田数は1,816町1反145歩。うち不堪佃(荒廃田)は227町4反71歩,堪佃(得田)は858町7反74歩である。堪佃の内訳は不輸租田5町6反133歩,応輸租田759町4反216歩,応輸地子田93町6反85歩で,応輸租田には口分田753町4反216歩と郡司職田6町があり,輸租田からあがる稲は1万1,381束9把であった。郡内の戸数は750戸,そのうち125戸が神戸,110戸が封戸に充てられており,口数(人口)は5,371人(男2,385人・女2,945人・奴17人・婢24人)であった。郡内の全郷の様子は不明であるが,新居【にいい】郷と津築郷の記載は残っており,その一部をうかがうことができる。当時の新居郷の官戸は110戸(郷戸50戸・房戸60戸),口数は677人(男322人・女351人・奴2人・婢2人)であり,口分田は97町253歩であった。また,津築郷は38戸(郷戸22戸・房戸16戸),口数は268人(男121人・女147人)で,口分田は38町3反299歩であった。これらは,全郡の官戸の半分近くに当たり,浜名湖西岸,現新居【あらい】町および三ケ日【みつかび】町大字都筑付近の様子が知られる。ところで,当郡の成立については敷智【ふち】郡分出説がある(伊場木簡の研究)。伊場遺跡出土木簡に「新井里人宗我部⊏,辛卯(持統5)年十二月」「□□(竹田)郷長里正等大郡」とあることや猪鼻駅の考察によって,淵評は持統年間には新井里を含んでおり,国郡制成立以後も大郡(20~16里)とあり,浜名郡輸租帳の記された天平12年以前に大郡敷智郡を分割して成立したというものである。平安期,「続日本後紀」承和10年10月癸酉の条によれば,当郡内の猪鼻駅は久しく廃絶しており,国司の進言によって,復興の必要性の有無を検ずる使者が出されている。猪鼻駅の位置については,湖南の現在の新居町付近説と湖北の猪鼻湖に面する三ケ日町内説があり,古代の東海道のルートはさらに検討を要する。「三代実録」元慶8年9月1日条によれば,貞観4年に修造した「遠江国浜名橋」が20余年を経てこわれたため,同国の正税1万2,640束を修造料として改作の勅が出されている。橋の規模は当時のものとしてはかなり大きく,長さ56丈(169.68m)・幅1丈3尺(3.93m)・高さ1丈6尺(4.84m)とある。浜名の橋は「更級日記」にも見え,寛仁4年に上総介の任を解かれた菅原孝標は女(作者)を伴って上京するが,その途中当郡内を通っている。「冬深くなりければ,川(天竜川)風けはしく吹き上げつつ,たえがたくおぼえり,そのわたりして浜名の橋についたり,浜名の橋,下りし時は黒木をわたしたりし,このたびはあとだに見えねば,舟にて渡る。入江にわたりし橋なり,外の海はいといみじくあしく,波高くて,入江のいたづらなる洲ともに,こと物もなく松原のしげれる中より,波のよせかへるもいろいろの玉のやう見え,まことに松の末より波は越ゆるやに見えて,いみじくおもしろし,それよりかみは,ゐのはなという坂の,えもいはずわびしきをのぼりぬれば,三河の国の高師の浜といふ」と記されている。浜名の橋から猪鼻を通り,三河に出ており,浜名の橋と猪鼻が近接していたことは知られるが,その描写からは,橋が湖南の新居町付近にあったのか,湖北の引佐細江【いなさほそえ】入口付近にあったものかは断じ得ない。これ以後,浜名の橋はしばしば歌枕として使われる。平安末期になると,郡内には浜名御厨(玉葉)・尾奈御厨(神鳳抄)などいくつかの伊勢神宮の御厨が成立するが,それらは,浜名郡輸租帳に見えた125戸の神戸を基礎として成立したと考えられ,浜名御厨などは新神戸と呼ばれ,本神戸は「神鳳抄」に中田神戸として見える。「延喜式」によれば,弥和山【みわやま】神社・英多【えた】神社・猪鼻湖【いはなこ】神社・大神【おおみわ】神社・角避比古【つのさくひこ】神社が登載され,「和名抄」には,坂上・坂本・大神・駅家・贄代・英多・宇智の7郷があげられている。郡域は現在の新居町・湖西【こさい】市・三ケ日町を合わせた地域に比定される。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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