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牧ノ原(近世)


 江戸期~明治22年の地名。榛原郡・城東【きとう】(城飼【きこう】)郡のうち。江戸期に牧ノ原と呼ばれたのは牧ノ原台地北端の牧野原村付近で,同村以南は金谷原と総称されていたらしい。また,布を細長く引き伸ばしたような形状にちなみ布引原とも呼ばれたという(掛川誌稿)。幕府直轄領であったが,水の便が悪く未墾の荒蕪地であった。元文5年,池上右衛門・同大次郎の2名が497町余の開墾を許可されたが,その実が上がらないまま,まもなく召し上げられている。のち延享元年には秣場として近隣17か町村に貸与され,以後,農民の入会草刈場として幕末に至る(大井川)。明治元年駿府藩領(同2年静岡藩と改称),同4年静岡県,浜松県を経て同9年再び静岡県に所属。明治2年,徳川慶喜に従って駿府に移った旧幕臣の新番組が,静岡藩主に金谷原の開墾を申請し,同年静岡藩に金谷開墾方が設けられた。以後,新番組200名余に沼津の彰義隊残党80名余が加わり,開墾方から給与が支給され牧ノ原台地の開墾が開始され茶が栽培された。明治4年,金谷原の呼称は牧ノ原と改められ,翌5年には旧静岡藩主徳川家達から牧ノ原開拓団に1万円が下賜されている。しかし,この頃開墾方は廃止され開拓民の生活は苦しくなっていった。明治11年困窮した開拓団は明治政府に4万円の拝借金を願い出て2万円の貸与を受けた(大井川)。牧ノ原開墾には新番組・旧彰義隊のほか,相良勤番組や大井川川越人足も加わっている。当初の開墾予定地は,旧藩府直轄地で静岡藩領となった1,500町であったが,明治10年には500町が開拓された(静岡県の歴史―近代現代編1)。開墾に従事した旧士族は明治12年には214名であったが,同16年には119名に減少(大井川)。明治22年の戸数89。同年市制町村制施行により成立した自治体に分割編入された。牧ノ原に属した地域は,自治体編入後明治末年頃まで,「牧ノ原ノ内」として扱われ,大字とは性格を異にしている。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7352987