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愛知郡


慶長5年関ケ原の戦後,徳川家康は武蔵忍城の松平忠吉を清須城主に封じて知多郡の一部を除く尾張国の大部分を領有せしめたが,同12年忠吉は病死,かわって徳川義利(義直)が甲斐府中城から移り,尾張一円を領有することとなった。同15年には名古屋城築城工事を開始,清須城下から武家・町家・寺社をすべて名古屋へ移転させ(清須越),元和2年領主義直が母相応院とともに名古屋城に入城,以後幕末まで名古屋は尾張徳川家16代の城下町として繁栄した。「寛文覚書」によれば,村数105(うち4か村は高外寺社領),本田の元高7万5,712石余(寺社領とも)・概高9万5,308石余,新田の元高3,109石余・概高3,293石余・高8,385石余,寺社領は領高内元高1,905石・高100石・領高外元高1,787石余,給人自分起(領高外)は新田高116石余,伝馬給(領高外)は元高31石余,反別は,本田が田4,219町余・畑1,536町余,新田が田517町余・畑776町余,寺社領が領高内の本田田87町余・畑49町余,新田田4町余・畑34町余,同領高外田111町余・畑37町余,見取場が田14町余・畑74町余,給人自分起が田98町余・畑47町余,伝馬給が新田畑11町余,家数1万420・人数5万9,406,馬2,128・牛58。「天保郷帳」では122か村・8万9,511石余。「旧高旧領」では132か村・12万4,200石余(うち寺社除地7,566石余・犬山藩領分4,115石余・美濃今尾藩領分1,052石余・尾張藩領分11万1,466石余)。「天保郷帳」に見える村名は,名古屋村・押切村・栄村・中野高畑村・牧野村・米野村・中島村・大秋村・日比津村・上中村・下中村・稲葉地村・岩塚村・横井村・中須村・大蟷螂村・下之一色村・東起村・法花村・中郷村・打出村・野田村・八田村・烏森村・万町村・高畑村・荒子村・中島新田村・熱田新田村・中野外新田村・八ツ屋村・丸米野村・五女子【ごによし】村・小塚村・本郷村・四女子村・長良村・高須賀村・北一色村・中野村・牛立村・七女子村・二女子村・露橋村・平野村・広井村・日置村・古渡村・前津小林村・熱田【あつた】宿・大喜村・高田村・御器所村・古井村・丸山村・川名村・石仏村・高田村・本願寺村・北井戸田村・本井戸田村・山崎村・戸部村・笠寺村・本地村・南野村・牛毛荒井村・桜村・新屋敷村・中根村・八事村・植田村・伊勝村・末森村・猪子石村・一色村・下社村・上社村・高針村・藤森村・長久手村・岩作村・大草村・本地村・菱野村・山口村・北熊村・前熊村・岩崎村・米野木村・藤枝村・藤島村・本郷村・野方村・浅田村・梅森村・赤池村・平針村・島田村・野並村・鳴海村・相原村・間米村・五軒屋新田村・高鴨新田村・吉池新田村・沓掛中島村・大久伝新田村・沓掛村・部田村・祐福寺村・傍爾本村・諸輪村・和合村・折戸村・当知新田村・長三郎新田村・源兵衛新田村・紀左衛門新田村・柴田新田村・俊広新田村・道徳新田村。郡域は東西6里・南北2里にわたり,水陸交通の要所であり,慶長6年東海道に伝馬の制が布かれると三河の7宿を経て鳴海宿,熱田の宮宿に至り,宮宿より七里の渡しを航海で伊勢国桑名に出るようになっていた。脇往還佐屋路を迂回する陸路もあり,ほかに飯田街道・善光寺街道・木曽街道・美濃路なども郡内を通っていた。尾張藩の支配関係は,町奉行が名古屋の町中・寺社門前および町続を,熱田奉行が熱田を管轄し,在方ははじめ国奉行配下の代官が蔵入地,郡奉行が給知を支配したが,9代藩主宗睦による天明の改革後名古屋に大代官所が置かれ,当郡・春日井郡・海東郡・近江国・摂津国の領分を支配,天保5年には180か村・高16万2,967石余を支配。また鳴海村には鳴海代官所が置かれ,当郡・知多郡・三河国の領分を支配,天保5年には102か村・高7万693石余を支配した。当郡は大代官所支配70か村,水野代官所支配25か村,鳴海代官所支配31か村(うち16か村は文化8年以後大代官所支配)となっている(徇行記)。産業は,名古屋城下および熱田市街を中心として商業が発達し,ことに熱田魚市場は大いに活況を呈して全国に名高く,周辺農村では商品蔬菜生産もさかんであった。また,尾張藩領の木曽山から切り出した材木は,木曽川の水運を利用して熱田の白鳥御材木場に集められ,白鳥材木奉行がこれを管理して,この地が一大集散地となっていた。明治2年名古屋藩,同4年名古屋県に属し,同5年愛知県に所属。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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