100辞書・辞典一括検索

JLogos

46

上門真荘(中世)


鎌倉期~戦国期に見える荘園名尾張国葉栗郡のうち上門間とも書く門真荘ともいう皇室(長講堂)領建久2年10月の長講堂領課役注進状案に「上門真庄」とあり,元三雑事御簾などの年中行事用途公事や,月宛仕丁・門兵士などの夫役が課されている(島田文書/鎌遺556)本家職は後白河院から皇女宣陽門院に譲与され,後深草院を経て持明院統に相伝された領家職は公用のため5か年の年期を限り延暦寺に給付されていたが,正中2年12月当荘両郷のうち半分の本加納は慈光寺仲経に返付され(花園天皇宸記正中2年12月4日・6日条),以後慈光寺家に相伝された応永14年3月宣陽門院領目録写によれば,仲経の孫光仲(通光)と日野町資藤(供僧方分)が領家職を折半し,年貢絹150疋・糸300両とある(八代恒治氏所蔵文書/大日料7‐8)しかし,光仲知行分は孫持経が天皇の大酒を諫めたことから没収され,一旦は青蓮院児に給付されたが,応永28年10月21日光仲の歎願により返付された(看聞御記)なお,南北朝期の永和元年4月近江守護佐々木高詮が同国甲賀郡儀俄荘地頭儀俄五郎に安堵した所領内に「尾張国門真本加納」が見え(蒲生文書/神奈川県史資料編3上),当時は佐々木(六角)氏が地頭職を掌握していたらしい長享元年近江守護六角高頼を討伐した幕府は,高頼の本領であった当荘を没収し,10月22日京都臨川寺に近江国押立保内横溝郷の替地として与えた内海某が300貫の年貢を請け負っている(天竜寺文書/大日料8‐20,蔭涼軒日録長享元年11月22日条)以後戦国期には荘園支配に関する史料を欠く荘名の終末所見は,善徳寺蔵証如絵像の天正9年9月28日付裏書に「尾州葉栗郡上門間庄中島郷」とあるもの(善徳寺史料/一宮市史資料編6)承久2年11月29日付西園寺公経家相博状案によれば,当荘は西で松枝荘と隣接していたという(大徳寺文書12/大日古)中世に知られる荘内地名に現在の木曽川町域の門間村(伊富利部神社蔵鰐口銘/木曽川町史)・黒田郷(鷲林拾葉集/続群28下)・雉塚郷(建内記),一宮市域の八幡村(以覚寺蔵阿弥陀如来絵像裏書/尾張名所図会下)・大野郷河田村(来徳寺蔵阿弥陀如来絵像裏書写/一宮市史資料編6)・大家郷和栗村(栄泉寺蔵阿弥陀如来絵像裏書写/同前)・大野村・中島郷(善徳寺蔵阿弥陀如来絵像裏書/同前),江南市域の河野郷(伺事記録/室町幕府引付史料集成上)などがあるこのほか,荘域は現在の岐阜県南部にも及んでおり,河野門徒に属する寺院に伝えられた本尊裏書などによれば,岐阜県各務原市域の「上門間庄本庄郷中井」(河野西入坊文書/年報中世史研究12),「本庄郷真島」(本竜寺文書/同前),川島町域の「尾州葉栗郡上門間庄本庄郷笠田村」(妙性坊文書/同前),笠松町域の「上門間庄西中野」(専福寺文書/同前),「上門間庄大塚」(河野円城寺文書/同前),「上門間庄本庄郷栗木」(河野栄泉寺文書/同前),岐南町域の「上門間庄本庄郷下食村」(願生坊蔵本尊裏書/同前),「勝津間庄本庄郷平島」(河野西入坊文書/同前)なども荘内の地名として見えるなお,鎌倉期の仁治元年10月14日付二階堂基行譲状では,相模国御家人二階堂基行が「尾張国西門真庄」の地頭職を子息行氏に譲っている(二階堂氏正統系譜/鹿児島県史料旧記雑録拾遺家わけ1)この西門真荘は現在の岐阜県羽島市小熊付近とされる(一宮市史本文編上)また,岐阜県川島町松倉の長光寺梵鐘の天正5年銘文には「尾州葉栗郡東門間庄本庄郷梅水海道 川島山長光寺常住物」と見える(岐阜県史史料編古代中世2)




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7356078