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設楽郡


足利氏所領奉行人注文によれば,設楽郡は平安末期に国衙別納地になったとみられる富永保とともに足利氏が郡地頭職を保持していた(東北大学所蔵倉持文書/岡崎市史6)。これは幡豆郡司・設楽郡司の伝承を有する三河伴氏一族の所領が没収されて足利義氏に与えられたものであろう。額田郡と同様に当郡も額田郡公文所の管轄下にあって,足利被官衆へ分割給付されていたと推定され,設楽郡では明らかではないが富永保では長氏が給名を与えられていた。注文の奉行人の一員設楽太郎兵衛入道は三河伴氏の一族で足利被官となったものであろう。室町期には額田郡と同じく御料所となり,分割給付体制も継続していた。暦応3年に伊勢神宮造営杣山として「設楽山」が指定されたのは(師守記延文元年3月28日条),御料所の故であろう。「康正二年造内裏段銭并国役引付」では奉公衆の彦部近江守が黒瀬郷,設楽越中守が下郷河路村,富永弥六が富永保の段銭納入者で,ほかに杉山弾正左衛門尉,疋田孫左衛門尉も当郡に関係があった。これら奉公衆の給分のほかは足利氏一族に関係の深い曇花院の所領であった。寛正4年2月6日の「設楽御料所御年貢銭勘定状之事」では前年分の年貢は375貫640文,このうち「本所作」21貫986文,「里方」20貫200文と「山家」26貫750文の不作を引いた当納所は280貫文あった(内閣文庫所蔵曇花院殿古文書)。文正元年2月29日付の「きゆう院」宗安書状では妙雲院主竺英聖瑞(足利満詮女)から「きゆう庵天おう」分として譲られた「ミかハのくにしたら」のうち30貫文中の「あしくみ」分の10貫文,綿1把,糸若干を譲り,残る20貫文は妙雲院に返却することとし曇花院にも詳しく申したとある(大徳寺文書/大日古)。この返却分20貫文についてであろうか,同年5月28日に「妙雲院領参河国設楽郷」について守護不入を認めた足利義政の御判御教書が出されている(曇花院殿古文書)。明応3年7月26日には「きゆう院」宗祐が「とわ」に「見川したらのうち」20貫文を譲っているが(同前),これは先に返却された分かもしれない。御料所設楽郡についての史料はこれが終見である。すでに15世紀中期より菅沼・奥平ら出自の判然としない小領主が郡内に出現しており,16世紀にいたれば山家三方と称された田峰・長篠の両菅沼氏,作手の奥平氏が設楽・富永らの奉公衆勢力を屈服せしめる状勢となった。山家三方衆は連合と抗争をくり返しつつ,今川・松平・武田3戦国大名の間をゆれ動き,元亀年間には一時武田信玄に服属するが,信玄の死後は徳川家康に属し,長篠の戦(設楽原の戦い)以後当郡はほぼ家康領国となった。なお中世後期において,現北設楽郡の北半分は加茂郡足助荘となっていたが,その範囲は明確ではない。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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