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桑名(中世)


 室町期から見える地名。桑名郡益田荘のうち。禁裏御料所。木曽・長良・揖斐3川河口に形成された中州,あるいは海退現象によって益田荘地先に形成された砂州に生まれた都市。宝治2年の益田荘荘官某申状(近衛家文書8)によって,益田荘内に蔵人所貢供人・蠣貢御江埋跡の存在が知られるが,これら住民による中州の開発,定住化,それと3川の河口に位置し,美濃・尾張・伊勢をつなぐ交通上の要衝に立地する絶好の条件によってこれまでの富津にかわって港町として発展,やがて禁裏御料所となり益田荘から分離したのであろう。永仁3年鎌倉幕府評定始に「神祇権大副経世朝臣申 伊勢国桑名事」(永仁3年記)と見えるが,この桑名は神宮領桑名神戸のことと思われる。文和5年良賢の書写になる「教王経開題愚草」奥書(宝生院経蔵図書目録)に「勢州桑名庄西別所」,応永21年の近江国清滝神社鰐口銘に「伊勢桑名三寄浄土寺」,永享12年大田三郎旦那売券(潮崎万良文書/熊野那智大社文書5)に「ます田庄まちや村并くわなの村,三ケ村」と見えるのが,桑名の名があらわれる早い例である。しかしこの頃すでに港として発展しつつあったことは,応永30年と推定される守護一色義範書状(円覚寺文書/相州文書)に円覚寺正続院造営材木を美濃より桑名を経て運送していることが見えること,同31年の正続院使統勝の勧進銭請取状案(同前)に「桑名政(所)就船賃事礼銭」「桑名下向時路銭」と見えていることからうかがえる。また政所の存在から,この頃禁裏御料所となっていたことが推測される。寛正4年内宮は庁宣を発し,所々より徴納した神供上分米110石を桑名盛丸船に積み込んだところ,守護方より盛丸を公事により抑留,そのため積替の許可を一色氏守護代石河道悟に要求しているが,道悟は「更々不存知子細」と返答している(氏経引付,氏経神事記寛正4年12月20日条)。神宮にとって美濃・尾張・近江に散在する御厨上分米の集積地として桑名は重要な位置を占めつつあった。文明14年守護被官人赤堀氏によって羽津に設置された新警固(水路関)停止をめぐって内・外宮は神宮使を桑名に派遣し交渉にあたらせ,あわせて他国廻船に対し神役督促を行わせる一方,桑名両政所在次,実政に協力方を依頼している(氏経引付)。当時桑名は新儀の新警固に対し「本警固」と呼ばれ,以前より水路関が設置されていた(同前)。永禄8年の「船之聚銭帳」(大湊町役場所蔵文書)には,「くわなや甚太郎」「くわなや又四郎船」が大湊に入港している。禁裏御料所としては,文明9年を初見として蠣をほぼ8年貢進していることが「御湯殿上日記」に見えているが,永正6年後柏原天皇は桑名につき阿野季綱に「仰」せることがあり(後柏原院記永正6年1月19日条),同17年にも北畠氏一族木造俊泰に依頼していることが見え(守光公記永正17年2月10日条),さらに下って天文8・11年,本願寺証如に依頼して長島願証寺を通じて「公用」の徴取をはかろうとしているのは(天文日記天文8年3月9・10日,同11年10月26日,同年11月2日条),この頃桑名をめぐる長野氏・梅戸(梅津)氏(六角高頼子)の動きと関係がある。永正7年原因は不明であるが,「彼在所之事,緩怠無是非」きにより長野尹藤が入部,住民は逃散をもって対抗する事件が勃発,このため廻船入航が不可能となり,内・外宮は和田則武・山田三方の懇望や,なによりも「種々神物御調之神船」が寄港できなく海路危険が生じたため,住民を「御免」し,その遷住の許可を長野氏に強く要望した。これに対し長野氏は強硬に拒否,結局翌年2月神宮の調停が成功し,住民は遷住した(守晨引付)。今堀日吉神社文書に「桑名ハ既ニ 上儀をさへ不致承引,被加御退治津にて候」とあるのは,これを指すものと思われ,長野氏の入部は幕府の命令によるものであったと考えられる。その後も長野氏の桑名支配は続き,天文5年長野宮内大輔は,梅戸氏入部の風聞あるにより本願寺証如に長島願証寺の援助を請うている。証如は「一向無案内」と断っているが(天文日記天文5年10月18・27日条),同7年桑名は長野・梅戸氏に分割されており,同年には梅戸氏が,長野氏が破約・入部の動きあることを証如に報じ,願証寺の援助を要請している(同前,天文7年12月13・16日条)。長野・梅戸両氏の支配は,翌8年3月まで継続(同前,天文8年3月10日条),同9年六角定頼が長野氏討滅のため伊勢発向を行っているのは両者の対立が再び表面化した結果であろう(大館常興日記天文9年9月4日条)。永禄元年の美濃紙の売買,伊勢海道の通行をめぐる近江枝村商人と得珍保(保内)商人の相論の過程で,戦国期の桑名の状況がうかがえる。枝村商人は紙売買の既得権を主張,桑名の美濃商人宿3軒から紙を購入,品不足の場合は桑名地下より買い入れるが桑名は「十楽之湊にて,諸国之商人相立事,不珍事」とのべ,枝木明朝ら桑名4人衆=「公事聞衆」の「此津者,諸国商人罷越,何之商売をも仕事候。殊昔より十楽之津にて候へ者,保内より我かまゝなとゝ申儀もおかしき申事」とのべた連署状を提出,主張を補強している。他方,保内商人は,天文22年と思われる桑名樋口定信等連署状に「枝村衆帋荷来候共,於桑名中者,取候て,其方へ可遣候」を根拠とし,枝村の主張を否定,枝村は盗み買いをしているのであって,「大略,何の売物にも座在之事」とのべ,4人衆のうち3人は河内の者,他の1人も桑名居住20年の者にすぎなく,たとえ「公事聞衆」であっても上様=六角氏の「御分別」が優越すると主張。しかし保内商人も桑名が十楽の津であることを正面から否定できず,「上儀をさへ不致承引」る津であることを認めている(今堀日吉神社文書)。当時の桑名が十楽の津といわれ,美濃・河内など諸国から人が集まり,「公事聞衆」と呼ばれる自治裁判組織を持つ都市として発展しつつあったことがうかがわれる。都市としての繁栄ぶりは,これより30年程前,大永6年津島より来た連歌師宗長が「此津南北,美の尾張の河ひとつに落て,みなとのひろさ,五・六町,寺々家々数千間,……数千艘はしの下ひろく,旅泊の火,星か河べのなど,古ごともさながらにぞ見へわたる」(宗長日記)と活写している。しかし「十楽の津」も長くは続かず,桑名には六角氏の勢力が浸透してきており,年不詳であるが桑名松岡城を北勢の国人朝倉・横瀬等「一揆」勢が攻撃,これも北勢の国人大木孫太郎らの援をえて,六角氏は撃退している(佐八文書/栃木県史史料編2)。永禄10年織田信長は伊勢に侵攻,桑名はその支配下に入り,やがて近世城下町へ変貌することになる。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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