服部郷(中世)

鎌倉期~戦国期に見える郷名。阿拝郡のうち。寿永2年10月,服部平康行が源氏に忠勤を励んだことにより,本領を安堵されて御家人に列せられた(東大寺文書/平遺4110)。服部氏は服部郷に蟠踞した官人出身の在地領主と推定される。「平家物語」には,源義仲に同心して伊賀へ落ちた信太三郎義憲を打ち取った服部平六は,かつて平氏の祗候人であったとして,本領地の服部をいったん没官されていたが,この戦功で返還されたという。鎌倉末期以降,伊賀国で東大寺との抗争を繰りひろげた北伊賀悪党の中核となったのも服部氏である。中でも「名誉大悪党」と称された服部高畠右衛門太郎入道持法は,服部郷高畠を本拠とするものであろう(東大寺文書/大日料6-6)。正治元年6月の後鳥羽院庁下文案(太上法皇御受戒記後附/鎌遺1063)には,「阿閇郡印代・服部両郷内字重次名田畠荒野等,号般若庄,永為笠置山般若台領」とあり,鎌倉初期,服部・印代郷内の公領であった重次名は,般若荘として立券された。「遊学往来」では茶の産地の1つとして「伊賀国服部」の名があげられている。なお,明徳2年9月28日西大寺諸国末寺帳(西大寺本)によれば,「八鳥服部」に西大寺末寺の大岡寺があった。戦国期に入り,文明2年3月4日旦那注文(米良文書/熊野那智大社文書2)には「伊賀国服部阿山郷」として,「服部宮田尊康」「服部森川康実」「服部池田康実」「服部長嶋康連(貫)」「服部いさと永康」等の名が見えている。また永禄11年3月には吉田兼右が服部郷の高田出羽守らの招きにより,一宮諏訪社(敢国神社)の千部経会に列席,その後も「服部郷蓮花寺」を宿所にして活発な活動を行っている(兼右卿記永禄11年3月8~23日条)。高田氏は一宮の年預でもあった有力な土豪で,天正5年,吉田兼見(兼右男)が伊賀に下向した際にも出迎えにあたっている(兼見卿記別記)。なお「信長公記」は織田信長の伊賀攻で「上服部党・下服部党」が撫で切りにされたと伝える。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7367059 |




