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竜口(中世)


 平安末期から見える地名。伊賀国名張郡のうち。寛治2年3月16日の伊賀国司庁宣案に「可早免除国見杣麓字竜口并鷹尾山栖事」とあるのが初見。この時,大膳職修理料材木等を国衙に進納した功労により,「鷹栖」のある鷹尾山とともに名張郡司丈部近国に与えられ,近国の私領となった(村井敬義氏本東大寺古文書/平遺1259)。四至は国司庁宣案に「限東国見峯際,限南檜皮峯南谷小河,限西足宇戸河々,限北杣道々」とある。このうち,西堺の「足宇戸河」は阿清水川をさすとみられるので,その領域は現在の奈良県宇陀郡室生村竜口から名張市竜口・上三谷に及んだとみられる。また鷹尾山はその西隣にあたり,現在の室生村西谷川と滝谷川に挾まれた山間丘陵部一帯であろう。この両所はもともと国見杣に属したが,当時は杣工や鷹守護人の在家が散在する程度で,田畠は余り開かれていなかったとみられる。長治元年,国見杣行事所の下知と号して,杣工等が「竜口山檜皮峯」で「鷹栖喰木」を切り倒し,材木造りを行ったが,近国の訴えにより停止され,以後,この私領は近国より近俊・俊方・兼俊へと伝領され,田畠の開発も進む(薬師院文書/平遺1612,三国地誌/鎌遺1088)。この間,周辺の荘園で領域支配が進展するにともない,興福寺と東大寺の支配が及んでくる。まず大治4年には興福寺伝法院領大和国大野荘住人が「竜口開発田畠」と国見杣を荘内だと称して濫行に及び,また天承元年にも同荘住人が国堺を越え「竜口村」に侵入している(東大寺文書/平遺2133・2202)。こうした大野荘民の押領に対抗するため,近俊が西隣の竜穴寺(室生寺)に保護を求め,私領の一部を寄進する挙に出たことも充分考えられる(三国地誌/鎌遺1088)。一方,東大寺は黒田荘側から勢力を扶植し,長承2年には「竜口山 田代二段,荒畠三町五段許歟」を東南院領として領有(東大寺文書/平遺2282)。さらに,黒田荘出作・新荘の一円的領有を実現する承安4年には院宣により竜口を黒田新荘に組み込むことに成功する。これにともない,私領主であった俊方は新荘の下司となり,東大寺の支配の下で従来からの領主権を承認された(鎌遺1088)。鎌倉期に入り,正治元年,竜穴寺領大和国長瀬荘民が「北竜口」を荘内だとして領有を図り,黒田荘との間で境相論が争われるが,結局長瀬荘側の主張は認められなかったようである(東大寺文書/鎌遺1075,百巻本東大寺文書/鎌遺1132)。黒田荘において悪党の活動が顕著になる弘安年間,俊方の子孫の信玄なるものが「新庄内三谷・竜口」に対する領有権をたてに,東大寺学生供米を対捍するに至る。東大寺の訴えにより,信玄の領主権を認めつつも,学生供米の弁済を命じる亀山上皇院宣が出されたが,信玄は寺命に従わなかった。この訴訟は永仁3年頃まで続けられたことが確認されるが,その結末は判明しない(東大寺文書9/大日古,東大寺縁起/続群27下)。しかし,暦応3年,寺家の支配に服さない寺領を書きあげた注進状に「三谷竜口,竜庄内」とあり,南北朝期にも在地の抵抗は続く(東大寺古文書/大日料6-6),その過程でこの地域は次第に黒田新荘から離脱する道をたどったとみられる。戦国期には地侍のなかから台頭した百地氏の領地となる(矢川・春日神社棟札)。百地氏は竜口を南北に界する「城山」に砦を構えたと伝えられるが,天正9年の織田信長の伊賀攻めで滅亡した(三国地誌・大和国郷士記)。なお,この砦跡は現存する(三重の中世城館)。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7368399