菅浦荘(中世)

鎌倉期から見える荘園名。伊香【いかご】郡のうち。立荘時期は不明。高倉天皇のとき,菅浦住人は供御人として認定され,朝廷御厨子所・内蔵寮に属した。また菅浦の在家田畠は,山門檀那院末寺竹生島に長日仏聖燈油料所として平安末期(寿永2年以前)に施入され,以後その支配をうけている。供御役は,建武2年の契約では「鯉参拾喉,麦一石四斗四升,枇杷弐駄,大豆一石三斗四升」で,戦国期まで(最後は天文14年5月か―言継卿記),その所管が内蔵寮から山科家に移っても一貫して納入され続けた(山科家礼記・言継卿記)。また,この時,堅田【かたた】浦漁人の違乱をとどめて,菅浦住人はこれまで通りの漁・廻船を行うことが認められている。菅浦住人は,供御人であるとともに,山門との関係で日吉八王子・二宮権現神人であり,これらの資格をもつことにより自由な行動をし,菅浦は惣村活動の地として有名である。その様相は鎮守須賀神社に「菅浦文書」として残され,中世村落をめぐる多くの問題を提示している。15世紀中葉,北接する大浦荘とともに日野裏松家の領有するところとなり,代官に松平益親が補せられているが,文明2年山門花王院に寄進し,その領有は終わる。その後の領有関係は明確でないが,周辺地頭・国人が年貢請取状を出している。天文期以後は浅井氏が支配し,元亀以後は織田信長の領有するところとなった。菅浦の耕地は,半島先端の集落のある菅浦(前田)地域と,大浦荘と接する日指・諸河との2つよりなる。前者は東・西集落(村)と港(浦)よりなり,耕地は少なく,文明期の花王院への年貢は6石前後(米1石・大豆4石・小豆1石),後者は大浦荘との所属をめぐる係争の地で,集落はなく田地4町5反・畑地14町前後で,年貢は米20石・銭20貫文である。なお菅浦の家数は中世を通じて70宇前後であった。日指・諸河をめぐる大浦荘との相論は,永仁3年より150年間にわたる。数度の刃傷事件を伴ったこの相論の過程で,文安2年と寛正2年には,周辺地頭,荘民等もまきこんだ大きな合戦も起こり,この両度に,菅浦惣荘は書置を残している。前者では「七八十の老共も弓矢を取,女性達も水をくミ,たてをかつく事」とし,また訴訟費用として200貫文・兵粮50石・酒直50貫文を必要としたこと,後者では「余所勢ハ一人も不入,只地下勢はかり,湯にも水にも成候わんとて,一味同心候て枕をならへ打死仕候わんとおもいきり,要害をこしらえ相待」ったことなどが記されている。またそれ以前の嘉元3年,菅浦村人は日吉十禅師彼岸上分銭150貫文を負債したが返済できず,元徳3年その催促使を殺害している。また,菅浦荘を領有しようとする周辺地頭等は多く,菅浦住人はその度に停止・安堵の文書を得,また生業である漁・廻船に対する保証も得ている。とりわけ,建治年間に鎌倉幕府が下した西国新関河手等の停止と門司【もじ】・赤間【あかま】(ともに山口県)以下所々関手の停止の式目追加法の写を保存していることは注目される。なお,永仁5年に荘内へ乱入した塩津地頭熊谷氏の主張によって,承久の乱により,関東御領・北条氏所領になったことも考えられる。応永4年には海津【かいづ】地頭の仲介により,堅田【かただ】と湖上の漁場の四至をとりきめ「然塩津口東西并大崎,同海津前不可(有)子細者也,就中小野江,片山,ほうちやう被直差候」とある。菅浦の「惣」は,乙名(長男)・中老・宿老・若衆等と呼ばれる東・西各10名,計20名によって運営され,領主検注拒否,年貢減免要求,年貢地下請等々を行い,一方内部規制として置文を作成,日指・諸河の耕地売買の禁止,内徳額の決定,紛失状の作成,跡地の相続等々を行い,これに違反したものにはきびしい処罰を課した。その他,菅浦は,南面し北に山があるため気候は湖北の中では暖かく,米・麦・大豆・小豆以外枇杷・柑子・綿・桐油を栽培していたことが中世文書で確かめられ,文書に見られる地名・荘名等は200にのぼる。菅浦の集落には現在も東・西に四足門が残されている。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7370974 |