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得珍保(中世)


鎌倉期から見える保名蒲生【がもう】郡のうち略して保内ともいう古代には猟野であった蒲生野の一画を延暦寺が占定・開発して成立したものと思われ,保名は開発にあたった山門の僧得珍の名にちなむと伝えられている以後戦国期末の時点に至るまで延暦寺領東谷東塔仏頂尾衆徒等が管領し,図師・公文の両沙汰人が在地で経営にあたった初見は弘安7年11月で,同じく仏頂尾の管領下にあった某荘と境界相論を起こしている正安3年12月には西に接する土御門姫領羽田【はだの】荘との境界相論があり,羽田荘預所深恵らが保内に打ち入り狼藉を加えたという14世紀以降保内は田方・野方という2つの領域に分割されており,田方は愛知【えち】川より引水した高井【たかゆ】を用水源に水田生産が行われ,野方は用水源に欠け畑作生産のみが行われる領域であった田方は上大森郷・下大森郷・中村郷(尻無【しなし】)・柴原【しばはらの】郷から成り,上四郷とも称された野方は近世の史料(蛇溝共有文書)によれば今堀【いまぼりの】郷・東破塚【ひがしこぼしづか】郷で1郷,蛇溝【へびみぞ】郷で1郷,今在家【いまざいけの】郷と野々宮郷(金屋)で1郷,中野郷・小今在家郷で1郷と7郷を4郷に編成し,下四郷と呼ばれた野方のうちでも南郷と呼ばれる蛇溝・今堀・東破塚では田方の余水をうけて徐々に畑地の水田化開発が行われ,山門は野方新開代官職を設けて生産力上昇の把握に努めたしかしこれらの「野方畠成田新開」はきわめて不安定で再び畑に復することが多く,永和4年10月にはその貢租が段別1斗5升,不作時は元の畑並みにササゲ3升と定められている保内は嘉吉2年頃検注が施行されたと考えられ,今堀郷分の検注帳の一部が残存している同年11月には保内で如法経行事もあり,蛇溝・今堀・柴原・中村の各郷より1反ずつがその仏田に宛てられている当時保内の田方4郷・野方7郷では各郷社の宮座を中核とする惣村結合が展開しており,同時に上四郷・下四郷も惣村の連合体として機能し始める保内の入会地は蒲生野・沖野・布引【ぬのびき】山等であったが,応永2年8月には蒲生野草刈場が上下八郷の立会と定められているのに対し,天正9年4月には沖野草刈場の境界をめぐって柴原郷と下四郷が争っており,入会用益の単位が惣荘から惣郷へ細分化されている上四郷の結合契機の1つには用水路管理があり,洪水による水路決壊の補修に際して上四郷惣が今堀郷惣に助力を求めたこともあった一方畑地の卓越する野方では,八日市や八風【はつぷう】街道に近接するという利点を生かして移動商業に従事する者が多く,保内商人あるいは野々郷商人と呼ばれた15世紀初頭には小幡【おばた】・石塔【いしとう】・沓掛【くつかけ】の商人とともに四本商人と称し,特権的な伊勢越商業を行っていたが,応永25年には石塔商人と,同33~34年には小幡商人と相論を起こして他の四本商人を圧倒し,保内川(現筏【いかだ】川)以北へと商業圏を拡大している寛正4~5年の横関商人との呉服座相論や文亀元年~2年の諸市庭相論を通じて商業圏はさらに北へと拡大され,享禄元年12月には五个商人の妨害を排除して,若狭越九里半街道での荷駄搬送を守護六角氏より保証されるに至った一方,伊勢越商業に関しても天文~永禄期には八風・千草【ちぐさ】両街道を独占し,枝村商人の紙荷等を押取しており,これらの座的特権の拡充は一貫して山門・六角氏の保護を背景とするものであった保内商人は野方下四郷の惣分が管轄しており,各商人が商売に出かける際は,下四郷の庵室に100文宛納入することが義務づけられていたしかしその内部は各惣村ごとの座に分かれており,それらの間では対立もあった田方上大森・下大森をはじめ保内周辺や街道沿いには保内商人に従属する足子商人が存したが,下大森の足子の支配権をめぐって天文2年には今堀と蛇溝が争っている織田信長の六角征伐後は柴田勝家が下四郷を知行していたことがあり,天正3年勝家は,下四郷各惣村の惣有田であった堂社領の課税を試みたが,農民の抵抗にあって,同年8月には先例通り免除の沙汰を下している(蒲生郡志3)下四郷では天正11・12年に太閤検地が施行されており(今崎共有文書),上四郷でもほぼ同じ時期に施行されたと考えられるが,これを境に得珍保は13か村に分割された近世以降13か村は保内郷と呼ばれ,入会地用益等を契機とする結合が残存し,中世得珍保の痕跡をわずかにとどめたが,保内商業は完全に消滅した(今堀日吉神社文書)




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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