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錦織郷(中世)


 南北朝期から見える郷名。古代の錦部郷の一部か。南北朝・室町期には,錦織東・西郷として文書上に現われるが,戦国期以降は,錦織郷としてのみ現われる。その後文明2年10月16日,もと錦織東郷の地頭職を有した多賀氏の後裔多賀清直は,錦織内の竹生【ちくぶ】島領を安堵している(竹生島文書61)。また文明8年の「はなのとう日記」(八木浜神社文書/東浅井郡志4)や,永禄11年の「竹生島納帳」(東浅井郡志4)には,錦織の農民名や字名が散見する。「竹生島納帳」には坊か辻・千田の字名が見える。また天正10年8月24日,柴田勝豊は錦織郷の351石を含む計2,000石を大沢為泰に宛行っている(前田文書/東浅井郡志4)。なお大神宮領と錦織郷は天正年間まで存続しており,同15年正月の「大宮司満長申状」には二所大神宮御封料として「近江国三ケ所錦織・日野牧・西今村 合百参拾八石也」とあるが,年貢収納は思うにまかせなかった模様である(慶光院文書/東浅井郡志4)。また同年8月2日,豊臣秀次は唐国・錦織両郷の出作方に,従来の如く夫役を賦している(中村文書/東浅井郡志4)。なお,郷内に和田村を含むことは,天文7年の「和田家阿弥陀仏裏書」(東浅井郡志4)から知ることができる。東・西の分郷についての初見は貞和元年11月12日の「足利尊氏寄進状」で,錦織東郷の地頭職が竹生島に寄進されているし,正平8年2月7日にも東郷地頭職は竹生島の御祈祷料所たるべき旨の「坊門中納言家奉書」が発給されている(竹生島文書14・17)。また文和5年2月13日の「公□書状」(御挙状等執筆引付/大乗院文書)には「春日社領近江国錦織東郷」とあり,南北朝期は春日神社を領家としていた。なお東郷の地頭職は,応永34年7月22日の「室町将軍家御教書」によって,当給人多賀高直に替地を宛行い,竹生島に返付すべき旨命令されていることがわかる(竹生島文書35)。また室町期には東・西両郷とも伊勢大神宮領となっており,大神宮領浅井保の一部を成していた(宮司公文抄所収文書/東浅井郡志4)。康正元年(カ)には,春成神税未進のため大神宮は代官を派遣している。なお同文書によれば錦織東・西郷は北方と南方に地頭が置かれており,「南方ハ堀方也」「北方ハ多賀出雲方ナリ」と追記されている。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7371816