石原郷(古代)

平安期に見える郷名。「和名抄」山城国紀伊【きい】郡八郷の1つ。高山寺本・刊本とも訓を欠く。「日本地理志料」は「按当読云伊之波良」とする。郷域は「山城名勝志」に「今吉祥院村南,島村ノ北,有石原村,桂川ノ東也」と記し,「日本地理志料」もこれを参照して,「吉祥院村,旧名土石原,其南為石原村,即其地也」としている。「地名辞書」は「山州名跡志」を引いて同様の見解を示し,加えて「其東に塔森あり,亦古の石原郷の中にて外里是なり」と述べる。しかし,永久元年12月日付玄蕃寮牒案には,中尾陵戸田の所在地として郷内の角神田・跡田・上鳥・下石原・川副・上石原・下布勢・飛鳥田の8か里があげられており(柳原家記録/平遺1801),長元6年3月10日の山城国紀伊郡司解案では,下石原西外・下佐比・上佐比の各里がやはり郷内の里として出現する(神田喜一郎氏旧蔵文書/平遺523)。これらの徴証からすると,郷域は上記の見解にかかわらずさらに東へ拡がっており,西九条および上鳥羽の西半部を含むものであったとしなければならない。「三代実録」元慶7年2月21日条には,「山城国⊏⊐野,自故治部卿賀陽親王石原家以南,至赤江崎,承和元年以降,百姓不能漁猟,重加禁」の記事があり,郷内に賀陽親王の別業があったことが知られる。また貞観13年閏8月28日の太政官符によると,桂川寄りの下石原西外・下佐比・上佐比の各里に属する一帯の地が「百姓葬送,放牧之地」と定められていた(三代実録・類聚三代格)。11世紀の初期に至りそこに石原荘が成立する(神田喜一郎氏旧蔵文書/平遺523・619)。一方郷域の東部には,上記中尾陵戸田のほかにも,白河陵戸田・後深草陵戸田・柏原陵戸田などが散在していたし(玄蕃寮牒案),さらに貞観寺領の田畠や(仁和寺文書/平遺145),円融寺領(東寺百合文書イ/平遺319)なども存在した。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7373689 |