神吉郷(中世)

鎌倉期~室町期に見える郷名。丹波国桑田郡吉富新荘のうち。元暦2年正月19日付の僧文覚起請文に「神吉」と見える(神護寺文書/平遺4892)。平安末期の承安年間,後白河法皇の近臣藤原成親は宇都郷に神吉・八代・熊田・志摩・刑部などの郷を加えて吉富荘を立荘し,後白河法皇法華堂に寄進した。ついで平家滅亡後源頼朝は宇都郷を神護寺伝法料として寄進,ほかの諸郷は文覚の請いによって後白河法皇が神護寺に寄進している。以後室町期まで当地は神護寺領として見える。「吾妻鏡」文治2年3月4日条には「主水司供御䉼丹波国神吉」とあり,地頭を補したため事の煩いがあると主水司より訴えられたため,源頼朝は当地の地頭職を停止している。当地には「三長記」建仁元年7月29日条に「主水司申,丹波神吉氷室供御人訴事」とあるように氷室があり,主水司の管理するところであった。「北桑田郡誌」は当地を「延喜式」に見える「桑田郡氷室一所池辺」に比定している。その後,寛喜2年4月28日の関東御教書にも「主水司申,丹波国神吉氷□(室)事」と見える(氷室文書/鎌遺3982)。また文永5年12月付の小野細川御作手重訴状に宇都郷の四至の1つとして「限南神吉氷室」とあり,宇都郷に南接していたこと,「当吉富南堺神吉氷室以東」とあり吉富荘の南境に位置していたことがわかる(神護寺文書)。その後,南北朝期の康永2年10月22日付足利直義御教書に「神護寺領丹波国吉富庄内志万郷并神吉上村等事」とあり,神護寺に安堵されている(神護寺文書)。下って永正8年8月22日,将軍足利義稙は当地から細川へ移っている(御随身三上記/群書23)。なお,年未詳(鎌倉期)の久我家領目録には「丹波国……神吉庄」と荘名が見えるが未詳(久我家文書)。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7375331 |